群れたがる2
タイに来始めて12年にもなると段々タイ人化してくる。
始めの頃は、「なんてバカな奴らだ」と思った事が、自分でも似た様な事をやり始める。
これも、その一つ。
今日、嫁(タイ人)に、「お母さんの家へ行くので、一緒に来るか」と誘われた。
自分は、別に何も用事が無いので一緒に行く必要は無い。
しかし、家に居ても、大した用事も無いので一緒に行く事にした。
始めの頃は、例えば、婚姻届を出すのに一族の人達が8人も役所に付いて来たり、バンコクに住んで居た頃、家族でチェンライに遊びに来ると、何人もの人達が空港に出迎えに来たりした。
(その他大勢の人は、ピックアップトラックの荷台に乗ってやって来る)
(村から空港までは1時間程かかる)
その時は、「そんなに関係ない人達まで大勢で来ても、君達、時間のムダだろ!」「よっぽど暇なのかい?」と思った。
お婆さんの家(今はもう無い)に泊って居る時でも、親戚の人達が昼間から、(見学に?)来てブラブラ(?)していた。
「平日の昼間から、いい大人がフラフラ遊んでないで、少しは真面目に仕事をしろよ」と思ったりもした。
最近は、お婆さんが亡くなったり、お義父さんが亡くなったり、したので、以前程一族の人達が大勢で集まる事は少なくなったが、それでも、何かの用事で、お義母さんを呼びに行った時など、関係のない近所の人達まで付いて来て、「なんでやねん」と思った事もある。
(その後、皆で食事をしようと言う事になって、「成る程、そういう事か」と思った)
(ちょっと勘ぐり過ぎかも知れないけれども、今日はATMが一緒にいるからネ)
で、自分の場合。
基本的に仕事はしていないので暇である。
だから、嫁に誘われれば、お義母さんの家へ行く事に問題は無いが、別に行かなくても良い。
では、何で行く気に成ったかと言うと、田舎の生活は単調なのである。
毎日、同じ景色、同じ様な人達と顔を合わせて、同じ様なものを食べて、同じ様な生活をしている。
日本なら(東京なら)、今日は何をしようか、何処へ行こうか、何を買おうか、何を食べようかなど、色々考える事が出来るが、チェンライの田舎では選択肢が殆どない。
外に出ても暑いだけで、大したお店も無いし、遊ぶ所も文化的施設も何もない。
(美味くもないクイッテオ屋さんと、面白くも無いお寺が有るくらい)
なので、少しでも変化を求めて、何か機会があれば出掛けようという気持ちが強くなる。
多分、これは地元のタイ人も同様で、「暇」というよりは、「退屈(生活が単調)」なので自分に直接関係のない事でも、人が何処かに行こうとすれば、付いて行こうとする。
実は、この傾向、自分や周囲のタイ人だけではなく、チェンライに住む多くの邦人にも、当て嵌まる気がする。
自分は、麻雀が趣味なのだけれども、麻雀をしている時にも、結構、麻雀をされない方が集まって来る。
まあ、日本人がチェンライで集まるのは、交友関係を深めるとか、情報交換を行う為とか、「タイ人の集まりたがりの習性」、とは若干違う気はするが、根底には「田舎暮らしの退屈さ」が一つある気がする。
特に、日本人(外国人)だと周りのタイ人との交流も少ないので(例外もある様です)、余計退屈する。
因みに、自分は日本(東京)でも、昔はバンコクでも、よく麻雀をやったが、そこに麻雀をやらない人が混ざる事は無かった。
(兎に角、麻雀をやるのが第一の目的で、食事も麻雀をやりながら食べた)
そういう意味では、都会の人間の方が、行動に目的意識を持っている気がするし、退屈なので集まる、というのは少ない気がする。
逆に、チェンライの様な田舎では、生活が単調なので、特に目的が無くても、人とつるんで出掛けるという事もある。
これは、どっちがいいのか、どちらが正しいのか、ケースバイケースで一概には言えないと思うが、都会暮らしの長かった自分としては(50歳迄は東京、その間に7カ月間程大阪、それ以降はチェンライ、バンコク、東京などを渡り歩く生活、尚、時々山梨県北杜市で生活)、目的意識を持った行動を基本として来たが、最近はそういう理由で、ちょっと変わって来ている。
(別に、用事も無いのに、嫁の用事に付き合って一緒に出掛けたりする事)
尚、タイ人の、「群れたがる」という性質に関しては、もっと別の大きな理由が考えられるので、それは、そのうち、「群れたがる3」にて書く予定です。
余談。
「群れたがる」、このタイトル1回使った様な気がして調べてみたら、「ちょっとした事2013年11月」の2013/11/29日の記事で使っていた。
(「群れたがる1&3」に移しました)
内容は、今回の内容とは違いますが、タイトルが被らない様に、今回は「群れたがる2」としました。