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2019年3月 5日 (火)

2つの地元(バンコク編)

2019/03/05(2つの地元)(バンコク編)

17年前に会社を早期退職して、なにか新しい生活を始めようと思って、取り敢えずタイに来た。

16年前、タイに来始めて暫くして、スクンビットの33にアパートを借りた。
最初の頃は成田にもアパートを借りていて、成田とバンコクの両方に拠点を持っていた。

しかし、この頃はどちらも、そこが「地元」、という気はしなかった。
どちらも、これから新しい生活を始める為の前線基地、或いは、仮の住まい、という位置付けだった。
自分の本拠地、地元は、長い事暮らして慣れていた(馴染んで居た)東京都杉並区の荻窪の家だと思っていた。

 

15年前、結婚して奥さんとラッチャダーのタイ文化センター駅の近くに移った時も、ここが地元という感覚はなかった。
その頃は、もう成田のアパートも引き払って、生活の3分の2ぐらいはラッチャダーのコンドミニアムに成っていたが、やはり、自分の本拠地は荻窪で、ラッチャダーは仮住まい的な感覚だった。

その頃から今まで、年に5往復ぐらい日・タイを行き来(通算では80~90往復ぐらい)しているが、荻窪の家へ帰ると、「地元に帰って来た」という感じがした。

地元とは、住み慣れた家が有って、何処に何が有るかが分かっていて、その土地のルールも理解していて、身内や友人も居て、自分にとって一番便利な場所、一番落ち着ける場所、一番暮らし易い場所、そういう場所の事だと思う。

荻窪に居ると、何処に行けば欲しい物が手に入るとか、何処へ行けば旨い物が食べられるとか(ただし、高級なレストランへは行きません)、病気に成ったらどの病院へ行けばいいとかが頭に入っているので動き易い。

当時(15年~10年程前まで)は、両親は荻窪の家に居る事は少なかったけれども(大体、大網か小淵沢の家に居た)、2人とも健在だったので、家で話をしたり、食事をする事も有った。

近所に、友人は居なかったけれども都内や近郊には、数は少ないが友人は居たので、一緒に飲みに行ったり、麻雀をする事も結構出来た。

兎に角、荻窪に居れば、色々な事が割と思う様に出来たし、暮らし易かった。

その頃、タイでは、ラッチャダーのコンドミニアムで2年程暮らしたが、何と言っても言葉が分からないので、外へ出ても制約が有る。
色々な手続きも1人では出来ない。
例えば、映画を見るにしても、タイ語や英語では余り面白くない。

食事には出られるけど、基本的にタイは美味しい物が(殆ど)無い。

本を読む(小説は殆ど読まない、読むのは経済書や科学技術書、人文地理関係の本など)にも、電車でスクンビット33の東京堂かチットロムの三省堂まで買いに行かなければならなかった。
当時はネットも無ければ、日本のテレビも見れない(僅かにNHKワールドの日本語放送が時間によっては見れた)。
タイの情報も分からないし(テレビでニュースを見ても、タイ語なので意味が分からない)、日本や世界の情報も分からない。
この頃は、株価はNHKワールドで見るか、週に1~2回、読売新聞を買って1日遅れで見ていた

兎に角、情報も食べ物も、(日本と違って)欲しい物が手に入らないので結構ストレスが溜まった。
家も、風呂は有ったけれども、落ち着いて入れる様な風呂では無かったし、畳の部屋も無い。
唯一、良かったのはスクンビット33時代に知り合った方達と麻雀が出来た事で、これが結構、息抜きには成った。
でも、こういう環境では、とても此処が(ラッチャダーが)「地元」とは思えなかった。

その後、奥さんの強い希望で奥さんの地元のチェンライ県パーン郡に家を建てて引っ越す事に成った。

以下、「2つの地元(チェンライ編)」へ続く。

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コメント

いつも不思議に思っています:貴兄のように円満な人格の持ち主で、容姿にも恵まれた方が何故早期退職をなさったのかが。昔の仲間が20年経っても遊んでくれるわけですから、人気のあった方だと思うのでなおさらです。

あり得るとしたらソフトバンクの94年のIPOで大当たりをし、生涯、高等遊民業で生活していけるだけのものを築かれたということかなとも。

 *94年に買った100株をキープしていたら、今や累計で1億8千万円の儲けになっているそうですね。

P様、コメントありがとうございます。
①容姿には恵まれてないです。普通です。
②このまま会社に居ても歳を取るだけで、先は見えていた、というのが有ります。
③たまたま株で儲けて、もう給料は無くても生活できる、というのは有りました。
④特に人気は無かったですが、普通に人付き合いはしていました。
⑤「こんな会社辞めてやる」、みたいな不満が有って会社を辞めた分けでは無いです。会社自体は好きでした。誰かとぶつかって会社を辞めた分けでも無いです。
②③の理由で、何か新しい事をしたいと思っている時に、たまたま、50歳に成って希望する人は「早期退職して下さい」、という制度が出来たので、こういう機会なら上司や周囲に迷惑を掛ける事は無いと思って申請しました。一応、上司には慰留されましたが引継ぎ期間の意味で3ヶ月程先延ばししてから辞めました。

昔は国際電話代が高かったよね、板さん!

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