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2023年1月の13件の記事

2023年1月29日 (日)

本日の散歩

2023/01/29(本日の散歩)

市街地の方に出掛けるちょっとした用事が有った。
自分の車は故障中だったので歩いて行く事に。

ちょっと歩いただけでも、タイらしいな~、チェンライらしいな~、と思った事が幾つか有ったので、その事について書きます。


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住宅団地内の道路

朝7:40頃。
ちょっと涼しかったので、ウインドブレーカーを羽織った。

団地内の道路は車が少ないし、飛ばしてる車も無いので安心して歩ける。
団地内に小さな公園が数ヶ所あって、団地内の散歩は良くする。


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庭に黄色い花の咲いている家が有った

チェンライには黄色い花の咲く木が多い。
この花とは違うが、藤の様な形で黄色い花が咲く木も多い。

黄色い花は今頃から数ヶ月間咲いている。道路沿いなどによく咲いている。


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ランムアン市場

住宅団地の近くにはタラート・ランムアンが有る。
チェンライで最大級の市場。

右側のクリーム色の建物は最近オープンしたばかりの洒落た感じのレストラン(&カフェ&バー)。


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道端には朝顔のような紫の花が咲いていた

ここだけ見れば綺麗なのだが・・・。


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タイの道路脇はゴミ捨て場(?)

この辺が如何にもタイ人らしい(?)。
タイ人は公共の場を綺麗に使おうというマナーが無い、非文明人。

昔の話だがお義母さんが走っている車から、窓を開けて食べ終わったゴミの入っているプラスチックの袋を投げ捨てた時は驚いた。


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道路沿いに居る宝くじ売り

この写真だけ街からの帰り道に撮った。
昼間の時間帯だと宝くじ売りが50m~100m間隔 で並んで居て、結構車が止まっているので売れているらしい。
タイ人は宝くじが大好き。
そんなものに頼らずに働いて稼げばいいのに。
或いは、貯めて置いて「投資」しすればいいのに。その方がずっと期待値は高いハズ。

因みに、宝くじ売りは大体女性で、客が居ない時はスマホをいじっているか、何か食べて居る。
(以前に此処を歩いた時に見た事)


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側道を走る車両

住宅団地の家から市街に出る道(1020号線)は片側2車線に側道が有る。
この側道を歩くのだけど、側道に入って来る車両も結構ある。
普通の乗用車が入って来る事も有るし、バイクも多い。大きなスピーカーの付いた宣伝用の車は側道を目いっぱい占拠して走って来る。
写真左の様にサイドカー見たいのが付いた車も側道をいっぱいに使って走って来る。
しかも、運転しているのは全て、無責任、乱暴、運転下手、のタイ人。

ここで事故に合わない為には自分で防衛するしかない。
なので、自分は必ず前から車の来る側の側道を歩くようにしている。
前からなら、危なそうな車やバイクが来たら避けられる。

因みにタイ人は殆ど歩いていない。
この道を30分ぐらい歩いたが、自分以外に歩いている人は見掛けなかった。
(反対側の側道を歩いている人は居たかも知れないが、気が付かなかった)

歩くのが大嫌いというのもタイ人の特徴。

あと、昔1回、乗用車とバイクの事故を見た時が有って、明らかに急に道を塞いだ乗用車が悪いのだけど、その車、倒れているバイクの女性を助けずに逃げてしまった。
しかも、目撃者が多数居る状態で事故を起こしても逃げてしまった。

まあ、こんな状況だから事故に合わされたら丸損で、タイでは自分で防衛するしかない。


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左側に本日の目的地、ヘリテージホテルが見えて来た

この辺りまで家から約30分。
運動には丁度いいぐらいの距離。


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道端に立てて有った線香

氏神様(土地の神様)に「お守りください」とお願いする為のものなのかな(?)。


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ホテルのサンチャーオ(祠)

これも氏神様(守護神?)に災いを防いだりをお願いするものなのかな(?)。
タイ人てこういう、神仏に頼るようなもの好きだな~と思う。
サンチャーオはちょっとした施設には殆ど有るし、個人の家でも有る家が多い。


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ホテルの花壇1

チェンライの人って花を好きな人が多いと思う。
多分、「花が好き」という事に関しては日本人以上かもしれない。


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ホテルの花壇2

チェンライて気候の関係で綺麗な花が育ちやすいのかもしれない。


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食事会中、午前9時頃

本日の散歩はヘリテージホテルでの朝食会に出席するのが目的でした。


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2023年1月26日 (木)

ザ・ヘリテージで昼食

2023/01/25(ザ・ヘリテージで昼食)

1週間ほど前の記事「ホテルでランチ」の続編みたいなものです。
前回行ったヘリテージホテルのランチビュッフェが気に入ったので、今回は奥さんと行った。


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ザ・ヘリテージ

チェンライでは老舗のホテル。

以前は寂れた雰囲気のホテルだったが、改装して少しましに(?)成った。
今日はフロント辺りにお客さんが数名居たし、客の荷物が沢山積んであったので、宿泊客は多そうだった。
もう、コロナの影響はなくなったのかもしれない。

自分達が来た時、レストランに先客は居なかった。
11:50頃から13:10頃まで居たが、客は後から2人来ただけ。
レストランはほぼ貸し切り状態だったので、ある意味、贅沢だったかもしれない。


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寿司コーナー

前回はサーモンが有ったが今日は無かった。
寿司ネタは日によって変わるらしい。


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本日の昼食(2人分)

ビュッフェの良いところは、色々な種類の物を食べられる事。
美味しそうな物を、多くも、少なくも、好きな量だけ食べられる。
メニューから注文するのは、タイ語や英語が分からないと難しい事が有るが、ビュッフェでは見て美味しそうなものを取るだけでいい。
メニュー表を見て、どんなものか想像する必要が無い。
(この機能は外国人には特に便利)
(ただし、タイの場合、見ただけでは、凄く辛いか、辛いか、辛くないか、判別が難しい事も有る)
既に出来ているものを取るだけなので、待ち時間が無い。
(ステーキなど焼いて貰う物は少しは待つ必要がある)
スタッフさんの人件費を節約しているのでコスパがいい場合が多い。

ビュッフェの欠点としては自分で取りに行くのが少し面倒な事。
食べ放題の反面、コストの高い食材は無い事が多い。
例えば、今日の場合、寿司でも「カニカマ」とか「めかぶ」とか「とびこ」の様な安めのネタが多くて、マグロとかハマチとか貝類とか穴子とかが無い。
(前回はサーモンと海老が有ったが今日はそれも無かった)
焼肉でも、牛が無い。豚と鶏だけ。
(これは、安いムーカタ・ビュッフェでも、そういうお店が多い)
不特定多数の人が食べ物を取りに来るので衛生面で少し不安がある。
まあ、もうコロナを心配してもしょうがないし、自分は気にしない。
食べ盛りの若い人は沢山食べられてビュッフェのメリットが大きいが、自分はカロリーを気にしながら食べるので、多くの量は食べられない(食べない)。その点はちょっと不利。
奥さんも少食なので、折角食べ放題なのに勿体ないという気持ちは少し有る。

まあ、歩きながら色々見て楽しむ、美味しそうな物を取って食べて楽しむ、エンタメ的に楽しい感じがするのはいい。


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本日の野菜&フルーツ

野菜も果物もドレッシングも自分の好きな様に組み立てられるのがいい。
(今回はブログに載せる積りだったので、最初から写真映りを考慮して皿に盛った)


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最後はコーヒーとデザート

これで完結(?)。

単品の注文で此処まで揃えると結構高くなるし、タイミングを計るのも面倒なので、ちょっと欲しいと思っても注文しない事が多い。
コーヒーやデザートの有るビュッフェはその点、食べ終わって欲しければ取りに行けばいい。

しかしこの後、奥さんがアイスクリームが欲しいと言い出して、アイスはビュッフェに置いてないので喫茶室(?)から買って来た。
「無い」からといって、簡単に妥協しないのが奥さん。

で、本日のお会計、ビュッフェが1人399バーツ。アイス2個が115バーツ。チップを含めた合計で950バーツ(約3700円)でした。


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2023年1月23日 (月)

7回目の兎年(その5)

2023/01/17(7回目の兎年)(その5)

自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳ぐらいの話の後半。
前回は54歳の時バンコクからパーンへ引っ越したところまで書いた。
今回はそこから60歳ぐらいまでの話。


西暦    タイ歴
2006年(2549)4月頃、54歳、バンコクからパーンへ移転。娘1歳。
2008年(2551)4月頃、56歳、シビック購入、&娘、幼稚園1年。
2009年(2552)頃、インターネット接続。
2010年(2553)頃、父他界。
2011年(2554)4月、59歳、娘、小学校1年(日本)。
2012年(2555)5月、60歳、娘、小学校2年(タイ)。


2006年4月に54歳の時、奥さんの強い希望によりバンコク(当時はラッチャダーのスーンワッタナータム=MRTのタイ文化センター駅近くのコンドミニアムに住んで居た)から奥さんの出身地のチェンライ県パーン郡に家を建てて、家族3人(この時、娘1歳)で移って来た。

パーンの家は当時はチェンライ空港から車で1時間程掛かり、市内からも30分程掛かる。
チェンライ県といっても、市内からは遠いかなりの田舎。

家の裏側は田圃、ていうか家自体が田圃を埋め立てた上に建って居る。

直ぐ近くには奥さんのお婆さんの家、木造高床式の家が有り、一番上のお義兄さん夫婦もその近くの木造高床式の家に住んで居た。
この頃は村の家は殆ど木造高床式の家だった。
まるで古代にタイムスリップしたような村。

木造高床式の家でも、御殿の様な高級感のある家も有るが、当時村に建って居た家は、失礼な言い方をすれば「あばら家」だった。
まあ、隙間だらけでも屋根さえしっかりしていれば熱帯だから、風通しが良くていいかもしれない。

商店も殆ど無く、150mぐらい離れた所に雑貨屋みたいのが1軒有っただけ。
その代わり、朝市とか夕市は100mと200mぐらい離れた所に有った。
土地で取れる野菜・果物とか、魚の干物(プラートゥー)とか、タイ風の焼き鳥、とか売っていたが欲しい様な物は殆ど無かった。

こんな所では文化的な生活は無理だし、まともなタイ料理すら食べるのも難しい、まして和食など絶対無理、そういう環境だった。
別に逼塞して暮らす必要も無いし、逼塞して暮らす積りも無かったが、車も無かったし、このままではそういう事に成ると思った。

流石に、この土地で、この土地の人達のような生活をするのは無理だと思った。

取り敢えず食事だけは何とかしなければならない、という事で、週に1回ぐらいはお義父さんの車でBIG-Cなどに買い出しに出掛けた。
当時はBIG-Cが一番便利だったが、パーンの町のタラート(市場)にも結構行った。
でも、この頃は日本食に使えるような食材は余り手に入らなかった。
調味料などは日本に帰国した時にキャリーバックにぎっちり詰めて持って来ていた。

日本食材が揃え易く成ったのは2013年にセンタンが出来てTOPSで買い物が出来るように成った頃から。


お義父さん夫婦は家からは車で20分ぐらい離れた所に住んで居たが、家には良くやって来た。

お義父さんの車が使えない時は、ソンテウやバスでチェンライの街まで行ったり、そこで、車をレンタルしたりしていた。
奥さんはバイクで近場なら買い物に行けたので、自分もバイクに乗ろうとして、最初の1回目でアクセルとブレーキを間違えて隣の家の生垣に突っ込んで「バイク禁止」に成ってしまった。

田舎の生活は情報に関しても世間から隔絶された様な状況で、これも何とかしなければいけない。
チェンライの街に出た時は1日遅れの読売新聞を買った。
テレビは衛星アンテナを付けてインドとか海外の放送も見れる様にした。NHKワールドが見れた時も有ったが、英語放送が殆どで余り役に立たなかった。衛星アンテナは故障が多い、という問題も有った。
この頃は、帰国した時に本を沢山買って来て、それを読んで渇望した情報不足と持て余す時間を紛らしていた。


2008年の5月頃、娘が幼稚園へ通う様に成って、その前に車(今も使っているシビック)を買った。
これで買い物が自由に出来る様に成って、行動の自由も少し広がって、やや、普通の生活に近付いた。

車を買う条件と、娘を家から少し離れた私立に入れる条件として、「送り迎えは奥さんがやってね」という事にして、これは今迄ほぼ守られている。
食事を作るとか、掃除をするとか、家事を信じられないぐらいしない奥さんだが、娘の送り迎えだけはちゃんとやっていて偉いと思っている。


2009年頃(実はここは良く覚えて無い)インターネットが引ける様に成ってTOTのインターネットを引いた。
それ以前は回線が村まで来て無くてインターネットを引きたくても出来なかったが、インターネットが引けたという噂を聞いて、直ぐに動いてインターネットを引いた。

これで、ニュースとか株価とかの情報は世間並に入手出来るようになった。
ネット情報は、ほぼ、日本に居るのと変わりなく入手できる。
(一部、海外からは見れない情報も有る)
(今では、株の売買は日本と同じに出来るが、当時はまだネット取引はやって無くて、インターネットが入って暫くしてからネット取引の手続きをした)
それまでの、情報から隔絶された生活から解放された。

車とインターネットが揃ってやっと、少し文化的な生活、普通の生活、が見えて来た。
今では、インターネットが無くてもスマホが有れば、随分違うと思うが当時はまだスマホは普及して無かった。

2010年頃父が他界した。実は、正確にいつだったか、何歳の時だったか覚えてない。日本に行けば分かるが、今、手元に資料が無い。
多分、父81歳、自分が58歳の時だと思う。
この直後に、母の認知症が表面化したが、最初から施設に入った分けではない。
ケアマネジャーさんと相談しながら、訪問介護とかディサービスとか最後は介護施設への入所とか段階を踏む事に成る。

自分はこれ以前も年に5回ぐらい、日・タイを往復する生活をしているが、母が認知症に成って、それを続ける必要性が増した。


2011年4月、自分59歳、娘6歳、の時に娘を日本の小学校に入学させた。
ここから1年間、家族3人で東京都杉並区の家で暮らす事に成る(母も入れて4人)。
1年日本に居て、学校にも通わせれば、日本語を覚えるのではないかと思った。
結果的に、この目論見は見事達成された。
(最初はもっと前に日本の幼稚園に入れようとしたのだが、それは幼稚園側に断られた)

娘は日本国籍も有るし、杉並区民でもあるので、日本の公立小学校に入学するのは制度上は問題ない。
ただし、事前に入学予定の学校と打合をせして、日本語が不自由である事を話して、娘を日本語に慣れさせるための専門家を付けてくれる事に成った。
杉並区では(?)元々そういう制度が有ったらしい。
(週に2~3回、1時間ぐらい、1対1の特別授業が有った)

帰国子女の親の情報交換会みたいのも区の主導で行われた。
集団登校の付き添いなどのPTA活動もやった。
30代ぐらいの奥様方に混じって60歳の爺さんがPTA活動というのは、ちょっと浮いていた感じだったが、最低限の役割は果たした。
運動会などの見物にも行った。
父兄会みたいのも有って、奥さんは出来ない(日本語が話せないので無理)ので、自分が「父兄」の役割を果たした。
ちょっと恥ずかしい感じもしたが、色々な活動は新鮮で面白いと思った。

入学式の時に、親から離れて行く時にワーワー泣いたが、帰って来た時にはケロッとしていた(と思う)(正確に覚えて無い)。
3ヶ月もしたら、自分との会話も日本語に成った(それまではタイ語で話して居た)。
娘が日本の学校に通たのは、1年生の時の1年間と、3年生~5年生までの4月だけだが(4月はタイの学校は休みで、その間に日本の学校に1ヶ月だけ通わせた)今ではほぼ普通に親子の会話は日本語に成っている。

尚、奥さんは2011年の8月頃に在留許可が下りて、日本への滞在や日タイの移動が容易に成った。
(3年ぐらい在留許可を持っていたが、更新を止めたので今は持って無い)


2012年4月、自分60歳、娘7歳、の時に娘をタイの小学校の2年に転入させた。
これは、娘が幼稚園の1年から3年まで行ったのと同じ学校。
パーン郡に有る私立の学校で幼・小・中の有る学校。


以下「7回目の兎年(最終回)」へ続く予定。


余談。

自分の人生にとって大きな出来事でも、正確な年月を思い出せないものが多い。
娘の学年とかは分かり易いが、父や母の事は結構覚えていない。
日本には何らかの資料が残って居るハズだが、タイに居ては見れない。
今回のシリーズは覚えている内に(資料が有る内に)ヒストリーを残して置こう、というのも一つの目的に成っている。
ブログはそういう記録を残すには役に立つと思う。
このブログを書き始めたのは2012年4月から、その時、自分は60歳なので、次回の記事を書く時にはブログの記録が役に立つと思う。


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2023年1月19日 (木)

ホテルでランチ

2023/01/18(ホテルでランチ)

ヘリテージホテル(センタンの南1km弱の地点、国道1号線沿い)という所で食事会をする事に成った。
1人400バーツで3人居ると4人目はタダに成るらしい。
要するに、4人集まれば1人300バーツに成る。

で、4人目の人数合わせとして声が掛った(冗談)。
メンバーは4の倍数に成るように(?)8人。


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ヘリテージホテルのロビー

ランチの時間は11:00~14:30。
12時に待ち合わせをした。

メンバーは在住者6名、旅行者2名の計8名。
皆さん自分と同じで、高齢の日本人男性。
タイ人の奥様が居たり居なかったり。


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レストランの入口

このホテルは数年前まで別の名前のホテルだったが、(多分)経営者が変わって名前も変わった。
以前に来た事のある人は「綺麗に成った」と言っていた。だいぶ改装したのだと思う。


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ヘリテージホテルのレストラン

120席ぐらい有る割と大きなレストラン。


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食事の準備中

ランチはビュッフェ形式で各自食べたい物を取って来る。


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食事準備中

結構色々な物が有った。
サラダコーナー、果物コーナー、お惣菜の様な物各種、スープ、焼肉(豚)、スパゲッティ、ラーメン、寿司、ケーキ、飲み物コーナー(コーヒー、紅茶など)。


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本日のランチ

野菜と果物、お寿司、スープ、焼肉。

カロリー制限をしているのだけど、折角なので色々食べてみた。


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ラーメン

何んとラーメンまで有った。
締めはラーメン。意外(?)と美味しかった。
スープが2種類あって、豚骨スープにしたが、ちゃんと豚骨ラーメンに成っていた。
チャーシューや海苔も自由にトッピング出来る。

ここまでで十分満足だったが、更に↓。


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最後はコーヒーとケーキ

ここのランチビュッフェかなり気に入った。

サーモン、海老、とびこ、玉子、めかぶ(?)と種類は少なかったが一応お寿司も有ったし、ラーメンまで有った。
これで300バーツなら絶対いい。3人までの400バーツでもいい。
レストランの雰囲気もいいし、コスパ最高。

日頃縁の無いホテルの綺麗なレストランで美味しい物を食べて、親しい仲間と話も弾んで(これが一番)、いい時間を過ごせた。


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2023年1月18日 (水)

7回目の兎年(その4)

2023/01/17(7回目の兎年)(その4)

自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳の話を書く積りでしたが、書き始めたら長くなったので48歳~54歳ぐらいで、会社を辞めた経緯とタイで生活を始めた経緯について書きます。

1974年4月22歳の時に社会人1年生。
1999年4月47歳の時に、勤続25年を達成。

「勤続25年達成者に連続した10日の休暇と10万円を支給する」というリフレッシュ休暇という制度が出来て、1999年11月、48歳の時にそれを利用してタイにやって来た。

この時は、タイ旅行好きの先輩社員と他1名の3人でタイにやって来た。
(リフレッシュ休暇は自分だけ)
(バンコクとチェンマイを1週間ぐらいで周った)
(この時の先輩社員は後に自分がバンコクで暮らす様に成った時も7人ぐらいでやって来て、一緒にプーケットに遊びに行ったり、また別の時にはチェンマイにやって来たり、今でも、帰国した時は旧タイ好きのグループで飲み会をする事も有る)

この時の旅行で「タイは何んと、のんびりした国だな~」、と思った。
自分は観光で来た、というのも有ったと思うが、みんな(タイ人)が陽気に遊んでいる。
チェンマイでは「昭和レトロ」的なものも感じた。

・・・こんな所でのんびり暮らすのもいいかな~・・・

そう思った。

もう一つ、この頃は株で結構儲けていて、旅行中も株価は確認していたが、旅行期間中に500万円近く儲かった(評価益)。
(この期間はたまたま大きく儲かった)
これならあくせく働く必要もないかも・・・。

この頃 ITバブルというのが有って、他にも連戦連勝だった。
仕事が情報処理系の仕事という事も有って、IT関連の会社の株などを多く買っていた。
上場前から買っていた自社株でも結構儲かった。

ここは(タイは)物価も安いし、ここなら、もう給料は無くても一生暮らしていけるかもしれない、そう思った。


それから約2年後、2001年10月、50歳の時に退職した。結局、会社には27年と6ヶ月勤めた。

退職する半年程前に、「早期退職優遇制度」みたいのが出来て、それが背中を押した。
今、50歳以上で退職すれば、退職金の満額と割増金が支給される、という制度。
これに乗った。

勤続25年でのリフレッシュ休暇から、50歳での早期退職優遇制度は、中高年を人員整理しようという会社の策略に上手く嵌ったのかもしれない。
まあ、会社の方から、辞めたい人は辞める事を奨励します、と言っている様なものなので辞め易かった。

実はその少し前から色々限界が見えて来て、会社自体は面白いと思っていたが、このまま55歳(当時の定年)あるいは60歳(再雇用)まで会社員をやってたら、会社で仕事をするだけで人生終わってしまうな~、という気がしていた。

会社を辞めるに当たっては、今後の生活費をどうするか、という問題が有ったが、それまで給与から溜めていたお金と株で儲けたお金で何とか成ると思った。
ITバブル絶頂の頃は、「もう給料は無くてもいい」と思っていたが会社を辞めようと思った頃はバブルは弾けていた。
しかし、まだ、勝ち分は残っていた。

まあ、万一、お金が底を尽きそうに成ったら、その時はまた働けばいいと思った。
71歳に成った今では、仕事はもう出来ないが残りの年数を考えれば「もう逃げ切り」、という感じには成っている。
(50歳まではきっちり仕事をしたので)少ないが年金も出るし。


会社を辞めて何をするか、暇を持て余さないか?、孤立して話し相手も居なくならないか?。
取り敢えず、世界を色々見てみよう、という事で会社を辞める前に空港に近い成田にアパートを借りて、そこに移った。

これが初めての東京脱出。
それまでは、長期出張で大阪に7ヶ月程居た事は有るが、それ以外は、中野区⇒日野市⇒杉並区、と全て東京暮らしだった。

成田は地方の中核都市だと思うが、アパートを借りたのは団地で、自分の小中学校時代も団地暮らしだったので懐かしい感じもした。
ボンベルタ百貨店が近くに有って、イオンモールも車で10分ぐらいで便利な場所だった。

職安も近くに有って、暫くは「失業者」として、失業保険を貰う為に通った。
確か、1ヶ月に1回ぐらい職安に行かないと求職しているとみなされず失業保険が出ない。
なのでタイに遊びに行った時も、そのために帰国したりしていた。

10ヶ月ぐらいで失業保険が切れた時、自分も遂に無職無収入に成ったか、と思った。

成田山新勝寺の境内や参道を散策したり、イオンモールで買い物をしたり、昔の会社の友人達と麻雀をする為に西船橋辺りに行ったり、自由気ままな成田暮らしは楽しかった。


成田空港は近いので、ここを拠点に世界に旅立つ。
空港は世界中と繋がる「どこでもドア」。

先ずは、馴染みのあるタイへ。
最初はホテルを予約して1週間ぐらいの旅行を繰り返し、その内、ホテル代が勿体ないのでバンコクにアパートを借りて。

バンコクでは日本食堂の親父さんと知り合って、一時期、そこの雀荘に入り浸り(食堂の2階が雀荘に成っていた)。
AM11時頃に「メンバーが足りないから来い」みたいな電話が掛かって来て、だいたい深夜まで麻雀。
食事は日本食堂だから和食が色々有る。
食事代は場所代に含まれてゲーム中は食べ放題。勝てばタダ。
最初の数ヶ月(3ヶ月ぐらい)はルールに慣れずに負けたが、そこからは、平均するとタダで麻雀と食事が出来るように成った。

メンバーは食堂の親父さんの他に駐在員さんや現地採用の方、遊び人さんなど。
自分で商売をされている方も居た。
(その内の1人に「売掛金が入るまで金を貸して」と言われて20万バーツ貸して、17万バーツほど未回収に成ったのは痛い思い出)
(この方、何人もから借金をしていて、「債権者会議を開いて取り立てに行こうか」何て話もあったが、結局みんな踏み倒したと思う)

年末などはみんなで忘年会をやったり、遊び人さんにバンコク内を色々案内して貰ったり、面白かった。

その内、タイに居る時間の方が長くなったので、成田のアパートは1年ぐらいで引き払って、日本の拠点は杉並の家に戻した。
タイではタイ語教室に通ったりもした。

この頃、今の奥さんと知り合って、子供が出来たので2004年4月頃(?)広いアパートに引っ越して、5月に結婚式、6月に日本で籍を入れて(この時52歳)、7月にタイの籍も入れた。
娘は同年9月に誕生した(この時、自分は53歳)。
(自分の両親も「出来ちゃった婚」だが、自分も「出来ちゃった婚」)

その後、バンコクでは1年半ぐらい暮らして、2006年の初め頃(?)(自分は54歳)、奥さんの強い希望でチェンライ県のパーン郡という奥さんの出身地に家を建てて移った。

長く成ったので今回はここまで。
以下、チェンライでの話は「7回目の兎年(その5)」へ続く予定。


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2023年1月16日 (月)

灯りに引き寄せられて

2023/01/13(灯りに引き寄せられて)

奥さんと買い出しに来た。

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センタンの入口付近

こういうキラキラしたのちょっと好きなので写真を撮った。


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左の方の緑は兎らしい



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もう1月13日だからクリスマスツリーではないと思う



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兎と兎年生まれの爺さん



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屋台の夜店

食べ物の屋台。いい雰囲気。
タイはこういう感じの所が多い。
意外(?)と美味しい物が有る。


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センタンの中

チェンライで一番(?)華やかな場所。

何となく雰囲気がイオンモールに似ている。


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本日の夕食、BBQプラザ

焼肉のお店。
BBQプラザに入ったのは3年振りぐらいか?。


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迷人、食事中



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奥さん食事中・・・じゃなくて、写真撮影中

モザイクを入れると「見るに堪えません」とかクレームが来るので今回は「単色塗り潰し」にしてみた。

BBQプラザの味は、タイのレベルでした。


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2023年1月13日 (金)

バイリンガルな駄洒落

2023/01/13(バイリンガルな駄洒落)

「7回目の兎年」シリーズはちょっとお休みして、今回は軽いお話。

昔、家族を連れて帰国した時、娘に日本らしい物・旨い物を食べさせてやろうと思って、「金目鯛」を買って来て煮付にして食卓に乗せた事がある。
「これは金目鯛という魚だよ」「美味しいよ」と言って、娘に食べさせようとした。
しかし、なかなか食べようとしない(この時、娘、小学生)。

暫くしてから娘、パパが「食べちゃいけない」、って言ったと思った、と。
確かに、キンメダイ⇒キン(食べる)・メダイ(ダメ)⇒タイ語だと「食べちゃダメ」、に成る。

この話を、タイに戻ってから仲間にしたら、結構受けていた。
(この話は以前このブログにも載せた)


で、今日、娘が起きて来て、「何か作って欲しい」と言って来た。
自分も朝ご飯をまだ食べて無かったので、何か作るか。

冷蔵庫に有った物を見て、暫く魚を食べて無かったので今日は魚にしようと思った。
娘には「魚がいい?、肉がいい?」と聞いた。
続けて「鯖がいい?」⇒「サバイイ・デー」⇒「サバイ・ディー」⇒(タイ語で「気持ちいい」とかの意味)
と言ったら、娘に「駄洒落か」と言われた(娘、現在、高校生)。

この駄洒落が通じる親子は滅多に居ないと思う。


230113a
マクロで買った鯖



230113b
本日の朝食

鯖は娘と半分こ、エリンギ、日本米のご飯、海老ワンタン、枝豆、キムチ。
鯖とエリンギと日本米とキムチはマクロで買った物。海老ワンタンと枝豆はセブンで買った物。


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2023年1月12日 (木)

7回目の兎年(その3)

2023/01/12(7回目の兎年)(その3)

自分の歴史を12年で区切ってふり返って見るこの企画、実は初めから解っていたが、会社員時代って書く事(書きたい事)が余り無い。
当時は、一生懸命仕事をしたし、遊びもまあまあした、と思っているが結果として殆ど何も残ってない。
つまらなくは無かったが、結果として眠っていた様な会社員時代だった。

会社員は1974年4月(22歳)~2001年10月(50歳)まで、27年と6ヶ月やった。
兎年で括ると24歳~36歳、36歳~48歳と2つの期間に大部分が収まるので、今回は24歳~48歳の「会社員時代」として纏める事にする。

尚、会社員の頭の方は新入社員時代(22歳~24歳)として前回の「青年期」に書いた。
尻尾(48歳~50歳)の部分はタイにかかわり始めた時期で、それは、次回の48歳~60歳の「タイ生活前期」に書く事とする。

漫画の「島耕作」だと会社員って、派閥争いとか、出世競争とか、新規事業の立ち上げとか、オフィスラブとか、不倫とか、随分楽しそうな事をやっているが、自分の場合は、そういう事に殆ど無縁だった。

抜擢も無ければ左遷も無い、転勤も無い、私生活でも東京都杉並区の家からの通勤を繰り返すだけ、入院するような病気に成った事も無い、事故や事件に巻き込まれた事も無い、ただただ忙しく仕事をしていた。

と書いて、これで終わらせる分けには行かないので、会社員時代に合った事や今考えている事を幾つか書いて見る。

まず、この時代の失敗は何と言っても「人生やるべき時にやるべき事をやって置くべき」という事。
異論のある方も居ると思うが、ここは、「家庭を持って子供を育てる」時期だと思う。
それをやらなかったが為に今、71歳にも成って未だに子育てをやる羽目に成った。

・・・まあ、それはそれで面白いが・・・。

「モテなかった」のでしょうがないが、島耕作さんみたいにオフィスラブとかやりたかった。
ちょっとだけ、「モテキ」を感じた時も有ったが、その時期に決めて置けば良かったかもしれない。

こういう話は、チェンライ在住の邦人には恵まれて居た方が多くて、とっかえひっかえ、とか、不倫とか・・・。
不倫なんて、自分はそのスタートラインにも立てなかった。
(チェンライの邦人の多くは日本での婚姻歴があるが、単身でタイに来られた方が多い)
(みなさん、日本で随分楽しい思いをされた様だ)

仕事は、プログラミングとかシステム作成をやっていた頃はメッチャ忙しかったし、ストレスも強かった。
それでも、面白かったが、ノイローゼみたいに成った事も有る。

有る仕事で、客先に出向いて新システムのインストールをする仕事が合って、これが全然動かない。
システムを開発した機種(ユニシス)と顧客の機種(IBM)との違いが容易に乗り越えられない。
客先には1人で出向いていたので、自分1人で解決するしかないが、基本的な知識が無い。
そこで渡されたのが、IBMの辞書みたいに分厚いマニュアルで、これが英語。
このブログで何度も書いているが、自分は英語が苦手で大嫌い。
もうお手上げ、頭がまっしろ、目が点、って感じだった。

某有名組織のある業務のシステム担当に成って、その本番の処理中にプログラムミスで作業がストップした。
時間的余裕が有ればいいが、ギリギリのスケジュールで作業をしている。
社会的に大きな注目を集めている業務で、遅れたり、問題が有れば、翌日か翌々日の新聞紙上を賑わす事はほぼ確実。
しかし、システム上の問題というのはそう簡単に分からない、解決には時間が掛かる事が多い。

・・・迷人、大大大ピーンチ!、真っ青!!!・・・。

結局、自分では解決出来ずに前任の担当者がミスを見付けてくれて、処理を終わらせる事が出来たが、会社の上層部や顧客のお偉いさん達を含めて大騒ぎだった。
(ただし、業務の性格上、知っていた人数は限られていたと思う)

他の組織の似た様な業務で新聞紙上を賑わしていた事も結構あったし、規模は違うかもしれないが、「システム障害で○○が出来ない」なんてニュースを聞くと、「担当者は真っ青だろうな~」「きっと、問題が解決する迄、寝る事は出来ないだろ~な~」、と今でも思う。

自分の場合、効率化を追求するのは得意な反面、手を抜く事も得意(?)で、この仕事環境には適して居なかったのかもしれない。

仕事はきつかったし、残業時間とかも多かったが(家に帰って寝る時以外は、土日も含めて全部仕事なんて時も結構あった)仕事も工夫したり、上手く行った時は面白かった。
社員も理工系が多かったので、そういう面で似た様な感じを持つ事も多かった。
麻雀や囲碁・将棋も強い人が多かった。
社員旅行とかクラブ活動的な合宿とかも面白かった。

まあ大変だったけど、面白い事も多かったので会社(または会社員という立場)は好きだった。


両親等の事を少し書くと、杉並に引っ越したのは父が、郵便局の局長に成った(郵便局を建てた)為で自宅と郵便局がくっついた建物だった。
母は暫くはその郵便局で父と共働きをしていたが40歳ぐらいで退職して専業主婦に成った。
祖母はその少し前に他界した。

この頃は、経済的には少し余裕が出て来ていた。
まあ、家族全員、無駄遣いしない性格だったし、みんな勤勉でそれなりの仕事をしていたし、当然といえば当然だったと思う。

自分が30歳の頃には、父は別荘地を探し始めて、休日に私の車で、千葉県(勝浦など)や山梨(甲府の近く、竜王の辺り)に良く下見に行った。
結局、山梨県の小淵沢町に別荘地を買って、此処に別荘を建てた。
自分としては勝浦の小山の上の土地が、海岸線を見渡せる絶景の地で、ここに別荘立てたらいいな~、と思ったが父の別荘だったので、自分が口出しする事では無かった。

小淵沢町(今は北杜市)の別荘には会社の友人達を連れて行ったりしたので、そこからは自分は別荘を持っているお金持ち、という事に成ったらしい。
実際には田舎の土地何て金額的には大したものでは無かったし、父にしても、有り余るお金が有って別荘を建てたというよりも、別荘を建てるお金は有った、という程度で、別に金持ちという事では無かったのだが。

父は63ぐらいまで郵便局長をやった後、退職した。その時自分は40歳ぐらいだった。
(正確に記憶が無いが、自分は父が23歳ぐらいの時の子供だと思う。因みに父も(私も)出来ちゃった婚)

退職後、父は今度は千葉県の大網に土地を買って、そこにも別荘を建てた。
別荘を建てるのは父の趣味みたいなものだったと思う。

ここから両親は、夏は小淵沢(北杜市)(八ヶ岳山麓の涼しい別荘地)、冬は大網(千葉県)(温暖な房総)、その間に杉並の家に立ち寄る、という生活に成った。
ずーっと杉並の家に居た(ここから通勤していた)自分は、ほぼ1人暮らしに成った。


あと、最後に1つ。

ブログの最初に「(会社員時代は)殆ど何も残ってない」と書いたが、敢えて上げれば1つだけ残ったものが有る。
それは30代前半ぐらいから始めた株で、実際に成果が上がり出したのは40代に成ってから。
ここで、信じられないくらい儲かった。
もう給料は無くても一生困らない、と思うくらい儲かった。
しかし、その半分以上は1999年~2000年頃(50歳前後)のITバブルの崩壊で失ってしまうのだが・・・。

以下、「7回目の兎年(その4)」、タイ生活前半(48歳~60歳ぐらい)へ続く予定。


ここまで、筆者の個人的な歴史にお付き合い頂きありがとうございます。最後にもう1つ。
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2023年1月10日 (火)

7回目の兎年(その2)

2023/01/10(7回目の兎年(その2))

7回目の兎年の年頭にあたって、これまでの自分の約71年の半生(残りの期間からいって、「半生」というよりは「5分の4生」ぐらい?)を振り返って見よう、記録して置こう、という企画の2回目です。

今回は12歳~24歳までの話です。

「青年期」というのはいろいろな説があって、グーグルで調べたら11歳~20歳とか13歳~22歳とか、10歳~30歳とか書かれていた。
まあ、12歳~24歳を青年期と言っても間違いではないであろう。
今回はその「青年期」の話。

1964年4月、12歳の時に中学入学。
1967年4月、15歳の時に高校入学。
1970年4月、18歳の時に大学入学。
1974年4月、22歳の時に社会人1年生。

自分の歴史を振り返る場合、「単調」なのも1つの特徴で、学生時代に留年とか浪人とかの経験は無いし、会社に入ってからも転職とか転勤も無い。
最初に入った会社に50歳まで居て、退職後に再就職とかも無い。

青年期というのは人生で、一番重要な時代、一番変化の多い年代、一番楽しい年代、だと思う。

この時代に、その後の一生の大体のところが決まる人が多いのではないか。
小学校卒業までは誰も同じ様な感じで、一生の中での枝分かれがされるのが青年期、その後の進路(医者に成るとか、教師に成るとか、技能職に成るとか、フリーターに成るとか)が青年期で決まる事が多い。

自分の場合も、中学、高校、大学、社会人、と変化は有ったが、当時の同世代としては一番ありふれたコースを辿った。
この間、中学は東京都日野市の家から通ったが、高校、大学、社会人は東京都杉並区の家から通った。

今から考えると、此処で1つの選択ミスをしたと思う。
社会人に成った時、家を出るべきだった。
仮定の話だが、家を出て独立した方が、自由に行動出来て良かったのではないかと思う。
結局家を出たのは、50歳に成ってからで、此処から行動が前向きに成った。

チェンライに暮らして居る同胞には、20歳前に上京して来て、20歳前に結婚して・・・、とか、そういう話を聞くと自分はこの時点で大きく出遅れたような気がする。
早く独立すべきだった。のんびりし過ぎた。

一番楽しい年代というのは・・・?。
確かに全体的に見れば楽しい年代だったと思うが、もっと遊んで置くべきだった、そこは一番後悔している。

この時は見えて無かった。
このまま楽な生活をしていても、自然に状況は変わる。
焦って失敗するよりも、状況が好転するのを待った方が得策・無難。
焦る事は無い、努力さえしていれば状況は好転する、と思っていた。
今から考えると、その「努力」の方向性が間違っていた。

此処は(勉強も、仕事も、人間関係も)積極的に動くべきだった。

それでは各年代別に・・・。


中学時代。

特にブログに書く様な事も無い、ありふれた中学生だったと思う。
元々運動は余り得意ではない、英語以外の成績はまあまあ。
人付き合いは苦手意識は有ったが、普通だったと思う。


高校時代。

入学した最初の学力テストで3百何人中、3百番台で(330人中310番目とか、そのぐらい)いきなり劣等生に成った。
少ない友人は居たが、どちらかというと孤立していた。
ここは人生の暗黒期(今から考えると懐かしい思い出も有るが)。
世の中には嫌な奴も居る、卑怯な奴も居る、というのを強く感じた事も有った。

この時、もっと自分自身を俯瞰的に見る事が出来たらと思うが、それは結果論で当時はそんな余裕は無かった。

担任が英語の教師で、劣等生扱いされた。
これで英語嫌いが決定的に成った。
思ったのは、「アメリカ人なら小さい子供だって英語が話せる」「別に英語が出来れば偉い分けじゃない」「数学や物理が出来る方が頭がいい」だった。

成績の方は、特に努力をした気は無いが最高25番目まで行ったので、まあまあに成った。
多分、入試の時、自分のレベルより高い高校に合格して、追い付くのに時間が掛かったという事だと思う。
(最後まで、英語は全然ダメで嫌いだったけど)
(今は思ってないが、当時はアメリカに媚びを売るのはバカバカしいと思っていた)


大学時代。

高校時代、真面目に勉強しなかったので、名乗れる程の大学には入れなかった。
その分、勉強は楽で遊びにエネルギーを集中出来た。

ここで、いきなり麻雀を覚えて、それが生涯の趣味に成った。
多分、授業がまだ始まる前、オリエンテーションの時に周囲に居た人達と意気投合して麻雀を教えてもらう事に成った。
S君という、ちょっと年上の麻雀の上手い方が居て、他の3人(4人?)は初心者だった。

S君には敵わなかったが、他の仲間よりは若干いい成績だったと思う。
まあ、勝っても学食のうどん代が出るくらいの賭け(?)だったが。

朝、学校の門の前に着くと、3人が待って居て、そのまま裏門から出て馴染みの雀荘に直行なんて事も結構あった。
(当時はスマホなんて無いから、実際に合ってみないと分からない)
雀荘で数時間麻雀をやった後、そのままメンバーの下宿に行って朝までとか、も良く有った。
(麻雀もやったけど、コントラクトブリッジなんかもやった。囲碁も少しやった)
真夜中に食べた「おでん」が美味しかった。

工学部だったので女性は少なく、他の大学と合コンをやって、女性と付き合う何て事も有ったが、長く続いた事は無い。

大学時代にやったイベントで一番記憶に残って居るのは、網元の息子が居て、彼の家の船で佐渡ヶ島沖まで漁に出て、イカ釣り船だったのだけれども、結局、凄い船酔いで元気が有ったのは最初の数時間のみで、後は数日船の中で仲間5人全滅、寝たきりだった。
もう吐くものが無くなって、胃液みたいのが出て、ゲーゲーやっていた。
(船員さんが4~5人規模の漁船)

新潟の桟橋に着いた時は「助かった~!」と思ってホッとしたが、暫くの間、地面がグラグラ左右に傾いていた。
平衡感覚が正常では無く成っていた。

それでも、いい経験に成ったと思う。
良かったのは、網元さん(友人のお父さん)の家でご馳走に成った海鮮物が美味しかった事で、特に食べ放題のイカソーメンの旨さは忘れられない。

他にも卒論の為の泊まり込みの合宿、とか、みんなで大学野球の応援に行ったりとか、デモに参加して機動隊が目の前に現れると一目散に逃げだしたりとか、大学時代は面白い事が沢山あった。
デパートの食品売り場の売り子のアルバイトや、お祭りの神輿担ぎのバイトなんかも面白かった。

麻雀のメンバーとは今も年に数回(ここ2~3年はコロナで回数が減っている)新宿や新橋で飲み会やカラオケをやっている。
まあ、卒業してから50年近くも経つと、他界されたり、借金取りに追われて行方不明になったり、色々あるが、まだ、多くのメンバーは変わらず元気にしている。
まだ現役で仕事をしいる方も居る。


社会人1~2年目。

当時流行り出していたコンピューター関係の仕事がやりたかったので、学生時代から個人的に勉強していた。
そういう情報処理関係の会社に就職して、システム分析関係の職場に配属された。

最初は燃えていた。

COBOLというブログラム言語で、プログラムを作る作業をした。
これは結構面白かった。

この会社、当時はそれ程とは思わなかったが、今の基準で言うとかなりのブラック企業だった。
福利厚生とか給与体系とか作業環境とかは特に悪くない。
残業をすれば残業手当もきちんと出る。
残業カットなんて事は当時は無かった。

何がブラックかと言うと、仕事量が半端なかった。
仕事の内容としては面白いので初めの内は残業とかも気に成らなかったし、周囲もみんな残業していた。
自分が残業に成るのは未熟な為でしょうがない、もっと上達すれば、こんなに残業する事も無くなる、と思っていた。

しかし、残業は無く成らなかった。
作業効率が上がるにつれてそれ以上に仕事量が増えた。難易度が増した。
周りには、「凄いな~」と思う程、手際良く正確に仕事をする人が大勢いて、自分が残業に成るのはしょうがないと思ったが、20代前半の貴重な時間を仕事ばかりやっていていいものなのか、とも思った。

まあ、それでもこの頃は燃えていた。

実力を付けてもっとみんなが驚く様な仕事をしてやろうと思っていた。

ストレスが溜まって麻雀は結構やったけれども、それ以外は仕事だけだった。
休みの日でも仕事の事を考えたり、休日出勤もした。

今考えると、ここでも、ちょっと方向性を間違ったかもしれない。
まあ、入社1~2年目だから、他の事は考えず仕事にかなりの比重を置く、というのはある程度正しい考えだと思うが、それ以外に、もっと周りをよく見て、人間関係を考えるとか、そういう事をすれば良かったと思う。

時間があれば麻雀出来る仲間が居れば当時は満足だったが、もっと戦略的な人間関係とかスキルの構築とかをして置けば良かったかもしれない。


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2023年1月 7日 (土)

7回目の兎年

2023/01/07(7回目の兎年)

1回目は生まれた年、1951年。0歳。
2回目は12歳。
3回目は24歳。
4回目は36歳。
5回目は48歳。
6回目は60歳。
そして兎年の今年72歳に成る(今現在は71歳)。

昔の事を考えると、一瞬、自分がまだそこに居るような錯覚に陥る事もあるが、実際は随分歳を取ったものだと思う。
何をして来たのであろう。

0歳から12歳までは、前半と後半で大きく分れる。

前半(6歳、小学校1年の1学期まで)は東京都中野区で両親と祖母、父方の叔父さんや叔母さん達と暮らして居た。
今の基準で考えれば極貧だったと思う。
6畳と2畳のアパートに通常は4人、叔父さんや叔母さんが居た時は5人で暮らして居た。
実は、叔父さんや叔母さんと暮らして居たというハッキリした記憶は無いが、言われてみればなんとなくそんな気がする。

多分台所も無かったと思うがハッキリした記憶は無い。
トイレは共同トイレで、夜中にトイレに行くのがお化けが出そうでもの凄く怖かった。

父は次男だったが兄弟の内で一番早く結婚し、自分がその長男(結局一人っ子)で、父の兄弟(女5人、男3人)の中でも最初の子供だった。
母の姉妹(最初は4人だったらしいが自分が生まれた時は2人)でも自分が最初の子供だった。
多分当時は、戦争が終わって落ち着いて来てこれからという時に、周囲の期待を背負って一族で最初に生まれて来た子供だったのだと思う。
そんな事は子供(赤ちゃん)の時は分からないが。

近所の人達(同じアパートの人達)にも可愛がられたらしい。
これも、記憶に無いが、言われてみれば、という感じが少しあった。

極貧だったかもしれないが、そんな事は分からないし、ひもじい思いをした記憶も無い。
多分、日本全体がまだ貧しい時代だったのだと思う。

断片的な記憶を辿ると、アパートの隣が蕎麦屋で、白黒テレビが置いて有って父と力道山のプロレスを見に行ったりした。
多分、たまに外食するぐらいの経済的余裕は有ったらしい。
風呂屋に行った記憶も有る。

あと近所で、缶蹴りをして遊んだり、何処かのお兄さんに連れられてラーメン屋に行ってラーメンをご馳走に成ったり、小学校の近くに居たカタ屋でカタを買ってカタを取った粘土に塗り絵をした記憶もある。

囲碁や将棋も最初にやったのは幼稚園か小学校1年ぐらいだったと思う。

1年の1学期までは中野の小学校に通ったが学校での記憶は殆ど無い。
ここまでが、0歳~12歳までの前半(0歳~6歳)までの東京都中野区に住んで居た頃の話。

1年の2学期からは東京都日野市の多摩平団地という所に引っ越した。
最寄り駅はJR中央線の豊田駅。

新しい団地で綺麗だったし、家も中野のアパートから比べると全然広くて、1階に4畳半と台所と風呂とトイレが有って、2階には3畳と6畳の部屋が有った。
階段を登って行くと2階にも部屋があるという凄い家だった(当時の印象)。

後から母に聞いた話では、家賃がものすごく高くて、最初は払って行けるのか心配だったらしい。
叔父さんや叔母さんが中野の家に同居していたのは自分が幼稚園かそれ以下ぐらいの時で、豊田では祖母、父、母、私の4人暮らしだった。

家は共働きで両親共郵便局に勤めていた。
父は中野の郵便局まで通勤。母は地元の郵便局に転勤した。
給料は安かったと思うが2人分を足せば、暮らしに困らない分ぐらいは有ったのだと思う。

私の面倒は主に祖母にやって貰った。
祖母も働き者で学校給食の手伝いや、着物の仕立て直しなどのアルバイトで、自分のお小遣いぐらいは稼いでいたらしい。

流石にこの辺からは覚えている事も多く成って、記憶している事をすべて書いていては切りが無いので、断片的に一部を切り出して書いて行く。

団地に住むように成って大きく変わったのは、居住環境が大幅に改善された事だが、その他にも、家電製品が色々入って来たというのも大きい。
一言で言えば、中野に住んで居た頃と違って、ずっと文化的な生活に成った。
時代も、そういう時代だった。

洗濯機、扇風機、ステレオ、白黒テレビ、冷蔵庫、などを次々に月賦で買った。
(まだ、クーラー、カラーテレビ、電子レンジは無い。団地には駐車場も有ったが、当然(?)車は無かった)
(「月賦」、当時はこう言っていた様な気がする。クレジットとか言い出したのはもっと後のような(?))
新しい家電製品が入る度に生活が便利に成って行く、近代化して行く、そんな感じだった。


多摩平団地というのはかなり大きな団地で、最終的には小学校2つ分を抱えるぐらいの人数のある団地と成ったが、自分が越して来た時はまだ建設途上で、団地の小学校は無かった。
小学校は昔から有る地元の小学校に通ったが、団地からは少し遠かった。
正確な記憶は無いが、田圃や畑を脇に見ながら、集団で登下校した。

小学校では先住の小学生と、新参の小学生が別々のグループを作っていた。
当時の印象では、先住の生徒とは異質の物を感じた。
大雑把に言えば、農家の息子のグループと、会社員の息子のグループという感じで、一種のカルチャーショックみたいなものを感じた記憶がある。


しかし、直ぐに団地の近くに新しい小学校(日野第五小学校)が出来て、団地の子はこちらに移った。

当時(小学生時代)の遊びは主に外での遊びが多かった(今と違って電子的なゲーム何て無い時代)。
団地は、田圃や畑や雑木林の中に突然出来た様な感じで、一歩団地の外に出れば、そういものに取り囲まれていた。

この頃一番印象に残って居るのは、崖から飛び降りる遊び。
当時は凄く高い所から飛び降りると感じたが実際は3mぐらいだったかもしれない。
そこの壁面に砂利が置いて有って、その砂利に向かって飛び込む。
着地すれば砂利と一緒に下に流れるので、それ程の衝撃は無いが、飛び込む瞬間は怖い。
砂利と一緒に下に流れるその達成感が心地良かった。

木登りや栗拾い、沢蟹取りも良くやった。
ザリガニ取りや、網で魚すくいもやった。魚は余り捕れなかったが・・・。
あと、仕掛けを作ってスズメを取ろうとした事も有ったが、それは失敗した。

弓矢みたいのを作って遊んだ事も有ったが、材料は何を使ったか思い出せない。
団地の廃材でイカダを作ってやったイカダ遊びがこの時代、もっとも面白かった遊びの記憶として有る。

兎に角、小学生時代は田舎の遊びを経験した。
この経験は後々、田舎と接する機会が有った時の自信に成った。

・・・自分は田舎でも遊べる、暮らせる・・・

まあ、実際は大した経験はしてないが、
例えば、タイに来てチェンライ県パーン郡の田舎で暮らす様に成った時、此処で何か田舎らしい遊びが出来ないかとか、
山梨県の小淵沢の家に行った時に、木登りして何か取れないか(アケビは沢山取った)とか、考える。

自分は都会育ちだけど、田舎の事も少しは分かるぞ、みたいな変な自信は有る。

団地の家は40㎡ぐらいの庭が付いていて、引っ越して来た時にそこに大根が生えていて、もしかしたら此処は以前は大根畑だったのかもしれない、と思った。
そのぐらい、自然(大根畑は自然じゃないが)の中に突然団地が出来たという感じの所だった。


小学校では目立たない生徒だったが、理科とか算数の成績は良かった。
特に、5年か6年の頃、算数の試験で100点を1人だけ、2回連続で取って、これはちょっと注目をあびた。
学校の成績ではこの頃がピークで後は下り坂に成った。

自分の場合、全然努力せずに気が付いたらトップで、そういうものかと思って、中学以降も殆ど勉強をしなかったら、流石にそんな甘いものじゃなかった。

国語は漢字の書き取りは苦手だったが、作文は得意だったみたいで(当時、自分にそういう認識は無かった)、市か何かの大会の学校推薦に成った事が有る。

会社に入ってからは、この文章力は結構役に立った。

これは今でも年齢の割にはまあまあだと思う。
ネットの掲示板などで、他者を誹謗中傷している書き込みを見ると、もう少しまともな(もっとセンスの有る)書き込みが出来ないものか、と思う事が良くある。


豊田には中学の3年まで居たが、そこから今の日本の住所、東京都杉並区に引っ越した。
次回は、兎年2回目12歳(中学)から、3回目24歳(社会人3年目)までの話の予定です。


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2023年1月 4日 (水)

一家全滅

2023/01/04(一家全滅)

ちょっと衝撃的なタイトルですが、要は家族3人風邪をひいてしまいました。

新年早々の1月1日(日)はまだみんな普通だった。
自分は奥さんに1月分の小遣いを振り込んだり、娘に小遣いとお年玉を現金で渡したりしていた。

翌、2日(月)、奥さんが喉の不調を訴えた。
自分も少し調子が悪かったので、(知り合いとちょっとしたイベントをやる予定が有ったのだが)外出を控えて家でじっとしていた。

念の為、ATKでコロナの感染をチェックしたがそれは異常なし。
症状としては熱が少し高めで、喉がイガイガ、ガラガラしているがそれ程酷い症状では無い。
ただし、自分の場合、風邪をひく時に最初に現れる症状が喉の不調なので、これは気を付けなければならない。

奥さんは体調が悪いというオーラを全身に出していて、かなり危険な状態。
この場合の「危険」というのは「病気」の事ではなくて、精神的な問題。
いつ爆発するか分からない。

こういう時に、怒らすような事を言うと、或いは、怒らすような事を言わなくても何か気に障る事を言ったり、態度を見せると、風邪などと言ってられない程の大騒ぎに成る。
ここは自分の為にも細心の注意を払って奥さんを落ち着かせなければならない。
今、暴れられては流石に体力的に苦しい。
(奥さんが機嫌が悪い時は顔に正直に表れるので、そういう時は兎に角微笑みかける、それで奥さんの顔が緩めば問題ない)

娘は2日(月)まで学校は休みで明日(3日)から学校再開。
家に居る娘の食事の用意は自分がしなければならない。
とは言っても、半分は娘に作らせた。
自分は材料の準備と手順を指示しただけで、サーモンを焼くのと、エリンギとベーコンを炒めたのは娘。

尚、自分と娘が居る時は食事は2人で食べる事が多い。
奥さんにも必ず声を掛けるが、大体、乗って来ないのは分かっているので、形式的に声を掛けるだけ。

ただし、たまに乗って来る時が有るので、そういう時はさり気なく自分の分を奥さんの方に回したりする。

3日(火)朝、娘に朝食を食べさせて学校へ送って行かなければならない。
普段は奥さんがそれをやっているが、しょうがない、ここは自分がやるしかない。
一応、昨夜、「朝、体調が悪かったら自分がやるからね」と言っておいた。
(ちゃんとしたタイ語ではなく、身振り手振りを交えて、ちゃんと伝わった)

2日に熱を測った結果では、奥さんはほぼ平熱、自分の方が風邪の程度としては悪い、と思ったがそんな事は言わない。
熱を測った時、奥さんには「少し熱が有るね」とは言っておいた。

そして朝、6:45頃、奥さんに娘の事を任された。

自分の症状は相変わらずだが、酷くは成ってない。
動き始めれば、普通に動ける。

昨夜の内に朝食は何を作るか等をシミュレーションしてあったので、それに従って淡々と準備。
朝食のメインは娘に受けのいい牛焼肉。あとは納豆とキムチとリンゴ。

学校に送って行く途中で何処に何時に迎えに行けばいいかを確認。

で、13:40頃、学校の前で娘を迎えて、BIG-Cへ。
暫く、買い物に行ってないので食べ物が底をついて来た。

買い物の後、自分も娘もお腹が空いて居たので、「1、KFCで食べる?。2、クーポン食堂で食べる?。」と聞いたら、娘が「3、美味しラーメン」というので久々に美味しラーメンで昼食。

で、3日のその後は省略して、今朝(4日(水))、自分は6:45に起きて朝食の準備をしていた。
娘がなかなか起きて来ないので、起こしに行ったら「今日は学校休む」だって。

まあ、送り迎えの手間が無くなって良かった・・・?。

しょうがないので、娘の為に作った朝食は自分で食べて、今日から始まる株式市場の動きをネットで見ていたら、娘がやって来て体温計で測った結果を見せて来た。

確かに、こりゃダメだね、しっかり熱が有るわ。

という事で、自分も体調がまだ悪いので、朝から3人、みんな寝ている。

「こいつは春から縁起がいいわい」って言葉が有るが、その反対は何て言うのだろう。
まあ、寝て居ればその内治るだろうから、それ程深刻な事には成って居ないと思うが・・・?。
(ブログを書く余裕も有るし)


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2023年1月 3日 (火)

正月は餅

2023/01/02(正月は餅)

日本人会の餅つきの時、出来上がった餅を2パック買って来た。
自分よりも何故か奥さんが気にいっている様で、食べたがった。
しかし、奥さんは餅の焼き方も分からないようなので、自分が準備をする事に。

先ずはオーブンで餅が膨らむまで焼いて。


230102e
焼き上がったお餅

それに、奥さんのご希望の甘い物、きな粉と餡子を付ける。


230102a
きな粉は日本食材店のステーションで買った



230102b
砂糖を加えて混ぜる

混ぜる係は奧さん。そのぐらい参加させないと。


230102c


日本の餡子用の豆(小豆?)とは違うのかな・・・良く分からない。
でも砂糖水で煮ると日本の餡子みたいに成る。


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餡子

この餡子は、前日、奥さんが作っていた。

要はお餅って奥さんにとってスイーツ、甘い物、お菓子みたいな物。
日本人の口にも当然合うが、カオニャオ(もち米)が主食(注)の奥さんにも合う。
また、最初の赤インゲン豆(?)は、奥さんは日本食の真似とは関係なく汁粉みたいな物を作って、以前から食べていた。

(注)(以前、「カオニャオが主食」と書いたら、「カオニャオは主食じゃない」というコメントが来たが、他は知らないが奥さんの一族はカオニャオが主食)

甘いお餅だけでもいいが、ちょっと物足りなかったので、自分は海苔を追加。


230102f
多分韓国製の海苔

これはBIG-Cで買ったと思うがセンタンでも売っている。


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お醤油をちょっと付けて

見た目はイマイチだが、味は、ちゃんとしていて美味しかった。


230102j
本日の夕食(?)

自分と奥さんと娘の3人で、それぞれ好みのお餅にして、ちょっと餅のホームパーティのような感じ。

こんな記事を書くと、「日本の物ばかり書くな」「タイ料理を載せろ」みたいに怒られそうだけど、やっぱり異国で食べる餅の味は格別でした。
奥さんも娘も気に入ってくれた見たいだし・・・。


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2023年1月 1日 (日)

謹賀新春

2023/01/01(謹賀新春)

あけましておめでとうございます。


230101c
100円ショップで買った高さ10cmぐらいの門松

今回のブログタイトルは「謹賀新春」としました。
同じタイトルは使わない様にしていて、「あけおめ」とか「謹賀新年」は既に使っている為、重ならない言葉を選択。

「新春」と言いましたが、今回は昨年の12月30日の話です。


2022/12/30(忘年会)


230101e
日本食レストラン「作」での忘年会風景

12月の初め頃にやったカラオケの時に、「忘年会をやろうよ」みたいな話が有って、そして今日(12月30日)、カラオケのメンバーの他、「作」に良くお見えに成る方達やその奥様、娘さんなど全部で18人程が集まった。

こういう催しはいいと思う。

タイ人の宴会に参加する事もたまに有るが、日本人同士の宴会の方が楽しい。
皆さんそれぞれにタイの社会に溶け込んでいるとは思うが、やはり、日本人同士にはタイ人には無い「通じる感覚」が有る。

自分はチェンライは日本人の人口密度が丁度いいぐらいだと思っている。
日本に居れば「日本人同士」で宴会をしようという事はないし、バンコクでも日本人が多いので「日本人同士」というより、その中でも「麻雀のメンバー」とか「ゴルフのメンバー」とかで細分化されると思う。
チェンライぐらいの人数って纏まりがいい感じ。
(麻雀のメンバーはもう少し居たほうがいい)

逆に、日本人が殆ど居ない地域、例えば、チェンライの10分の1ぐらいしか居ない地域ではメンバーを集める事自体が難しいと思う。
チェンライは「何かやるよ」と声を掛けて日本人を集めるには丁度いいぐらいの人数だと思う。

ちょっと高齢化して居るというのは有るが、自分自身が高齢者なので似た様な属性を持つ方が多いのは、人が集まる時には有利かもしれない。

もうちょっと若い感性の有る知り合いが居たらいいとは思うが、そういう感性と年齢とは必ずしもイコールでは無いので、若い感性を持たれる方が居ないという分けでは無い。


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宴会中

左端は自分。
その隣のお二人はチェンライでも屈指のインテリさん(英語が出来る方はインテリさんだと思う)。
右端のラフなスタイルが似合っているお方はミュージシャン(?)。この方は英語が得意(?)でカラオケでは英語の歌が十八番。


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カラオケ中

正面のお方はチェンライの女性に絶大な人気を誇るお方。

カラオケはミュージシャンの方が数曲英語の歌を歌ってました。凄い!、尊敬!。
日本から来ていた方(女性)が「糸」を歌っていたのは新鮮でした。いつもは昭和の歌ばかりなので30年前の歌でも「新しい」感じ。上手かったし。


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タイ人の奥様達

奥さん(左)は同じ地域(チェンライ県パーン郡)出身の奥様が居たので、ずっとその方と話してました。

その方、自分が10年程前にまだパーンに暮らして居た頃、自転車で村の中や近くをよく周って居たのを覚えていたらしくて、ちょっと驚き。
日本人て目立つのか、自分が何か変だったのか・・・?。


以下は本日の食べ物。


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サーモンとマグロとホッキ貝のお寿司


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お蕎麦

30日だけど年越そば(?)。


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お菓子類

上の2つ、何と言うのか分からない。
餡子ときな粉だったと思うが、緑のは食べて無いので分からない。

ブラウニーとカステラ。


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ぜんざい?

お汁粉とぜんざいの違いがよく分からない。


230101p
おでん


まあ、今日は日本語でいっぱい話が出来たし、カラオケも出来たし、日本の食べ物もいろいろ食べられたので良かった。
奥さんが居たので少し気を使ったが、奥さんの話し相手が居たのも良かった。


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