7回目の兎年
2023/01/07(7回目の兎年)
1回目は生まれた年、1951年。0歳。
2回目は12歳。
3回目は24歳。
4回目は36歳。
5回目は48歳。
6回目は60歳。
そして兎年の今年72歳に成る(今現在は71歳)。
昔の事を考えると、一瞬、自分がまだそこに居るような錯覚に陥る事もあるが、実際は随分歳を取ったものだと思う。
何をして来たのであろう。
0歳から12歳までは、前半と後半で大きく分れる。
前半(6歳、小学校1年の1学期まで)は東京都中野区で両親と祖母、父方の叔父さんや叔母さん達と暮らして居た。
今の基準で考えれば極貧だったと思う。
6畳と2畳のアパートに通常は4人、叔父さんや叔母さんが居た時は5人で暮らして居た。
実は、叔父さんや叔母さんと暮らして居たというハッキリした記憶は無いが、言われてみればなんとなくそんな気がする。
多分台所も無かったと思うがハッキリした記憶は無い。
トイレは共同トイレで、夜中にトイレに行くのがお化けが出そうでもの凄く怖かった。
父は次男だったが兄弟の内で一番早く結婚し、自分がその長男(結局一人っ子)で、父の兄弟(女5人、男3人)の中でも最初の子供だった。
母の姉妹(最初は4人だったらしいが自分が生まれた時は2人)でも自分が最初の子供だった。
多分当時は、戦争が終わって落ち着いて来てこれからという時に、周囲の期待を背負って一族で最初に生まれて来た子供だったのだと思う。
そんな事は子供(赤ちゃん)の時は分からないが。
近所の人達(同じアパートの人達)にも可愛がられたらしい。
これも、記憶に無いが、言われてみれば、という感じが少しあった。
極貧だったかもしれないが、そんな事は分からないし、ひもじい思いをした記憶も無い。
多分、日本全体がまだ貧しい時代だったのだと思う。
断片的な記憶を辿ると、アパートの隣が蕎麦屋で、白黒テレビが置いて有って父と力道山のプロレスを見に行ったりした。
多分、たまに外食するぐらいの経済的余裕は有ったらしい。
風呂屋に行った記憶も有る。
あと近所で、缶蹴りをして遊んだり、何処かのお兄さんに連れられてラーメン屋に行ってラーメンをご馳走に成ったり、小学校の近くに居たカタ屋でカタを買ってカタを取った粘土に塗り絵をした記憶もある。
囲碁や将棋も最初にやったのは幼稚園か小学校1年ぐらいだったと思う。
1年の1学期までは中野の小学校に通ったが学校での記憶は殆ど無い。
ここまでが、0歳~12歳までの前半(0歳~6歳)までの東京都中野区に住んで居た頃の話。
1年の2学期からは東京都日野市の多摩平団地という所に引っ越した。
最寄り駅はJR中央線の豊田駅。
新しい団地で綺麗だったし、家も中野のアパートから比べると全然広くて、1階に4畳半と台所と風呂とトイレが有って、2階には3畳と6畳の部屋が有った。
階段を登って行くと2階にも部屋があるという凄い家だった(当時の印象)。
後から母に聞いた話では、家賃がものすごく高くて、最初は払って行けるのか心配だったらしい。
叔父さんや叔母さんが中野の家に同居していたのは自分が幼稚園かそれ以下ぐらいの時で、豊田では祖母、父、母、私の4人暮らしだった。
家は共働きで両親共郵便局に勤めていた。
父は中野の郵便局まで通勤。母は地元の郵便局に転勤した。
給料は安かったと思うが2人分を足せば、暮らしに困らない分ぐらいは有ったのだと思う。
私の面倒は主に祖母にやって貰った。
祖母も働き者で学校給食の手伝いや、着物の仕立て直しなどのアルバイトで、自分のお小遣いぐらいは稼いでいたらしい。
流石にこの辺からは覚えている事も多く成って、記憶している事をすべて書いていては切りが無いので、断片的に一部を切り出して書いて行く。
団地に住むように成って大きく変わったのは、居住環境が大幅に改善された事だが、その他にも、家電製品が色々入って来たというのも大きい。
一言で言えば、中野に住んで居た頃と違って、ずっと文化的な生活に成った。
時代も、そういう時代だった。
洗濯機、扇風機、ステレオ、白黒テレビ、冷蔵庫、などを次々に月賦で買った。
(まだ、クーラー、カラーテレビ、電子レンジは無い。団地には駐車場も有ったが、当然(?)車は無かった)
(「月賦」、当時はこう言っていた様な気がする。クレジットとか言い出したのはもっと後のような(?))
新しい家電製品が入る度に生活が便利に成って行く、近代化して行く、そんな感じだった。
多摩平団地というのはかなり大きな団地で、最終的には小学校2つ分を抱えるぐらいの人数のある団地と成ったが、自分が越して来た時はまだ建設途上で、団地の小学校は無かった。
小学校は昔から有る地元の小学校に通ったが、団地からは少し遠かった。
正確な記憶は無いが、田圃や畑を脇に見ながら、集団で登下校した。
小学校では先住の小学生と、新参の小学生が別々のグループを作っていた。
当時の印象では、先住の生徒とは異質の物を感じた。
大雑把に言えば、農家の息子のグループと、会社員の息子のグループという感じで、一種のカルチャーショックみたいなものを感じた記憶がある。
しかし、直ぐに団地の近くに新しい小学校(日野第五小学校)が出来て、団地の子はこちらに移った。
当時(小学生時代)の遊びは主に外での遊びが多かった(今と違って電子的なゲーム何て無い時代)。
団地は、田圃や畑や雑木林の中に突然出来た様な感じで、一歩団地の外に出れば、そういものに取り囲まれていた。
この頃一番印象に残って居るのは、崖から飛び降りる遊び。
当時は凄く高い所から飛び降りると感じたが実際は3mぐらいだったかもしれない。
そこの壁面に砂利が置いて有って、その砂利に向かって飛び込む。
着地すれば砂利と一緒に下に流れるので、それ程の衝撃は無いが、飛び込む瞬間は怖い。
砂利と一緒に下に流れるその達成感が心地良かった。
木登りや栗拾い、沢蟹取りも良くやった。
ザリガニ取りや、網で魚すくいもやった。魚は余り捕れなかったが・・・。
あと、仕掛けを作ってスズメを取ろうとした事も有ったが、それは失敗した。
弓矢みたいのを作って遊んだ事も有ったが、材料は何を使ったか思い出せない。
団地の廃材でイカダを作ってやったイカダ遊びがこの時代、もっとも面白かった遊びの記憶として有る。
兎に角、小学生時代は田舎の遊びを経験した。
この経験は後々、田舎と接する機会が有った時の自信に成った。
・・・自分は田舎でも遊べる、暮らせる・・・
まあ、実際は大した経験はしてないが、
例えば、タイに来てチェンライ県パーン郡の田舎で暮らす様に成った時、此処で何か田舎らしい遊びが出来ないかとか、
山梨県の小淵沢の家に行った時に、木登りして何か取れないか(アケビは沢山取った)とか、考える。
自分は都会育ちだけど、田舎の事も少しは分かるぞ、みたいな変な自信は有る。
団地の家は40㎡ぐらいの庭が付いていて、引っ越して来た時にそこに大根が生えていて、もしかしたら此処は以前は大根畑だったのかもしれない、と思った。
そのぐらい、自然(大根畑は自然じゃないが)の中に突然団地が出来たという感じの所だった。
小学校では目立たない生徒だったが、理科とか算数の成績は良かった。
特に、5年か6年の頃、算数の試験で100点を1人だけ、2回連続で取って、これはちょっと注目をあびた。
学校の成績ではこの頃がピークで後は下り坂に成った。
自分の場合、全然努力せずに気が付いたらトップで、そういうものかと思って、中学以降も殆ど勉強をしなかったら、流石にそんな甘いものじゃなかった。
国語は漢字の書き取りは苦手だったが、作文は得意だったみたいで(当時、自分にそういう認識は無かった)、市か何かの大会の学校推薦に成った事が有る。
会社に入ってからは、この文章力は結構役に立った。
これは今でも年齢の割にはまあまあだと思う。
ネットの掲示板などで、他者を誹謗中傷している書き込みを見ると、もう少しまともな(もっとセンスの有る)書き込みが出来ないものか、と思う事が良くある。
豊田には中学の3年まで居たが、そこから今の日本の住所、東京都杉並区に引っ越した。
次回は、兎年2回目12歳(中学)から、3回目24歳(社会人3年目)までの話の予定です。
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とても興味深く拝読いたしました。(続編も期待してます)
なるほど、ちょっとだけ私のお兄さんですね。
謂わばポスト団塊世代(しらけ世代?)。
団塊世代のような熾烈な受験戦争もなく、今の若者を見て比べて考えてみれば、楽した世代のように思えます。
とはいえ、お互い、遅れてきた子育て世代でもあり、私は娘が大学受験ということで昨年から今年は悩み多き年です。
昨年は初めて三者面談なるものをチェンライでやりましたし・・・
もう、どこでもいいから大学に受かってほしいです。
ラジャパット大学あたり手頃で良いんですが、メーファーラン行きたいって言ってるし。
投稿: KP | 2023年1月 7日 (土) 19時34分
KP様、コメントありがとうございます。
自分の1学年上までが団塊世代と言われていた様です。
自分的には団塊世代の尻尾と思ってます。
娘の大学受験は心配ですが、親が出来る事は限られているし、ただ邪魔をしないように注意してます。
こちらの大学の事情は良く分からないので娘に任せてます。
結局は本人の希望と学力の問題なので・・・。
本人はバンコクの大学に行って、出来れば日本留学もしたいらしいです。
投稿: 迷人 | 2023年1月 7日 (土) 23時58分
次が楽しみ❗️
投稿: 後藤 宏 | 2023年1月 8日 (日) 01時12分
後藤様、コメントありがとうございます。
宜しければ、右サイドバーの「カテゴリー」の下から3つ目の「昔の話」をクリックして頂くと、関連記事が書いて有ります。
或いは、このコメントの少し上の、「昔の話」カテゴリの記事、の「昔の話」をクリックしても関連記事が見れます。
投稿: 迷人 | 2023年1月 8日 (日) 03時33分
東京の6畳と2畳のアパートって、当時でも、家賃は高かったんだと思います。
東京生まれの東京育ち、大学も東京ですか?
花の都、いいなあ。
僕なんか小学生の時に、船橋の親戚の家に初めて遊びに行ったときに紙芝居屋さんの紙芝居を初めて見て大感激しました。
親戚の子で東京から田舎に遊びに来ると東京の子に凄く違和感を覚えました。
そのうち時間的距離が近くなった(所要2時間)東京でも得体のしれないものを感じていました。
結局、東京におびえるあまり大学も東京方面は行かずに、地元の国立大学になってしまいました。
今から思えば東京に出れば、もっと簡単に入れて(例えば推薦入学、有名大学の推薦割振りがある進学校だった)、専門的なこと(例えば考古学←何かロマンがある)みたいなものが学べたんじゃあないかと今になると残念に思ってます。
それだけに花の東京で生活してきた名人さんが羨ましいです。
娘さんの進学は御両親と一緒に考えるべきだと思います。
僕はチェンマイの友人の息子がラチャパット志望って言っていたからラチャパットって誰でも行けるので意味ないから、希少価値と世間の評価があるチェンマイ大学を勧めたら、その息子はチェンマイ大学に進学しました。
今や親父としては、天狗のように鼻が高くなってるようです。
その息子は、チェンマイ大学の日本語学科で、入試は2世なので有利だったんだと思います。
(英語話せる2世が上智大学進学するのとおんなじようなもんだと思います。)
日本語が専門というだけで、就職の幅は広がると思います。
投稿: | 2023年1月 8日 (日) 05時52分
コメントありがとうございます。
娘の進路に関しては協力はするが干渉はしない積りです。
人によっては大学進学が人生にとって大きな意味を持つ事もあると思いますが、本当の勝負はそこではないと自分は思ってます。
投稿: 迷人 | 2023年1月 8日 (日) 13時15分
昭和の匂い満載のブログ楽しく読ませて頂きました。私はゆりかごから墓場まで競争といわれた団塊世代です。田舎の中学校でも1学年9クラスまでありました。 今、私の住む町は若い頃はニュータウンと呼ばれ、見事に私達の世代の居住地となりました。こどもたちが独立してまちを出た今、オールドタウンと化しています。廃屋も増え町から子供たちの声が消えつつあり、寂しいかぎりです。
投稿: m子 | 2023年1月 8日 (日) 15時52分
m子様、コメントありがとうございます。
街は各世代取り混ぜていた方がいいですよね。
同年代が多いのもいい面は有りますが、街全体の活気という面では、ちょっと寂しいです。
日本は少子高齢化が進んでますので、自宅のある荻窪辺りでも、「年寄りが多いな~」と思う事がよくあります。
投稿: 迷人 | 2023年1月 8日 (日) 17時11分
懐かしいお話の数々、わかる、ワカル感でいっぱいです。中野区鷺宮で育ち、荻窪を大都会だと思っていた49年生の老生としましては。
投稿: P | 2023年1月 8日 (日) 17時44分
P様、コメントありがとうございます。
団塊の世代、自分の少し先輩ですね。
自分の小さい頃の記憶、4~5歳ぐらいの記憶(それより小さい時の記憶は殆ど無いです)では、まだ戦後の面影が残っていたような気がしてます。
1949年生まれでは、もっと戦争の後という感じが有ったのですかね?。
2歳ぐらいの差では時代を見て来た風景はそれ程違わない気がしますが、学生時代の競争は激しかったのでしょうね。
投稿: 迷人 | 2023年1月 8日 (日) 17時45分