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2023年1月18日 (水)

7回目の兎年(その4)

2023/01/17(7回目の兎年)(その4)

自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳の話を書く積りでしたが、書き始めたら長くなったので48歳~54歳ぐらいで、会社を辞めた経緯とタイで生活を始めた経緯について書きます。

1974年4月22歳の時に社会人1年生。
1999年4月47歳の時に、勤続25年を達成。

「勤続25年達成者に連続した10日の休暇と10万円を支給する」というリフレッシュ休暇という制度が出来て、1999年11月、48歳の時にそれを利用してタイにやって来た。

この時は、タイ旅行好きの先輩社員と他1名の3人でタイにやって来た。
(リフレッシュ休暇は自分だけ)
(バンコクとチェンマイを1週間ぐらいで周った)
(この時の先輩社員は後に自分がバンコクで暮らす様に成った時も7人ぐらいでやって来て、一緒にプーケットに遊びに行ったり、また別の時にはチェンマイにやって来たり、今でも、帰国した時は旧タイ好きのグループで飲み会をする事も有る)

この時の旅行で「タイは何んと、のんびりした国だな~」、と思った。
自分は観光で来た、というのも有ったと思うが、みんな(タイ人)が陽気に遊んでいる。
チェンマイでは「昭和レトロ」的なものも感じた。

・・・こんな所でのんびり暮らすのもいいかな~・・・

そう思った。

もう一つ、この頃は株で結構儲けていて、旅行中も株価は確認していたが、旅行期間中に500万円近く儲かった(評価益)。
(この期間はたまたま大きく儲かった)
これならあくせく働く必要もないかも・・・。

この頃 ITバブルというのが有って、他にも連戦連勝だった。
仕事が情報処理系の仕事という事も有って、IT関連の会社の株などを多く買っていた。
上場前から買っていた自社株でも結構儲かった。

ここは(タイは)物価も安いし、ここなら、もう給料は無くても一生暮らしていけるかもしれない、そう思った。


それから約2年後、2001年10月、50歳の時に退職した。結局、会社には27年と6ヶ月勤めた。

退職する半年程前に、「早期退職優遇制度」みたいのが出来て、それが背中を押した。
今、50歳以上で退職すれば、退職金の満額と割増金が支給される、という制度。
これに乗った。

勤続25年でのリフレッシュ休暇から、50歳での早期退職優遇制度は、中高年を人員整理しようという会社の策略に上手く嵌ったのかもしれない。
まあ、会社の方から、辞めたい人は辞める事を奨励します、と言っている様なものなので辞め易かった。

実はその少し前から色々限界が見えて来て、会社自体は面白いと思っていたが、このまま55歳(当時の定年)あるいは60歳(再雇用)まで会社員をやってたら、会社で仕事をするだけで人生終わってしまうな~、という気がしていた。

会社を辞めるに当たっては、今後の生活費をどうするか、という問題が有ったが、それまで給与から溜めていたお金と株で儲けたお金で何とか成ると思った。
ITバブル絶頂の頃は、「もう給料は無くてもいい」と思っていたが会社を辞めようと思った頃はバブルは弾けていた。
しかし、まだ、勝ち分は残っていた。

まあ、万一、お金が底を尽きそうに成ったら、その時はまた働けばいいと思った。
71歳に成った今では、仕事はもう出来ないが残りの年数を考えれば「もう逃げ切り」、という感じには成っている。
(50歳まではきっちり仕事をしたので)少ないが年金も出るし。


会社を辞めて何をするか、暇を持て余さないか?、孤立して話し相手も居なくならないか?。
取り敢えず、世界を色々見てみよう、という事で会社を辞める前に空港に近い成田にアパートを借りて、そこに移った。

これが初めての東京脱出。
それまでは、長期出張で大阪に7ヶ月程居た事は有るが、それ以外は、中野区⇒日野市⇒杉並区、と全て東京暮らしだった。

成田は地方の中核都市だと思うが、アパートを借りたのは団地で、自分の小中学校時代も団地暮らしだったので懐かしい感じもした。
ボンベルタ百貨店が近くに有って、イオンモールも車で10分ぐらいで便利な場所だった。

職安も近くに有って、暫くは「失業者」として、失業保険を貰う為に通った。
確か、1ヶ月に1回ぐらい職安に行かないと求職しているとみなされず失業保険が出ない。
なのでタイに遊びに行った時も、そのために帰国したりしていた。

10ヶ月ぐらいで失業保険が切れた時、自分も遂に無職無収入に成ったか、と思った。

成田山新勝寺の境内や参道を散策したり、イオンモールで買い物をしたり、昔の会社の友人達と麻雀をする為に西船橋辺りに行ったり、自由気ままな成田暮らしは楽しかった。


成田空港は近いので、ここを拠点に世界に旅立つ。
空港は世界中と繋がる「どこでもドア」。

先ずは、馴染みのあるタイへ。
最初はホテルを予約して1週間ぐらいの旅行を繰り返し、その内、ホテル代が勿体ないのでバンコクにアパートを借りて。

バンコクでは日本食堂の親父さんと知り合って、一時期、そこの雀荘に入り浸り(食堂の2階が雀荘に成っていた)。
AM11時頃に「メンバーが足りないから来い」みたいな電話が掛かって来て、だいたい深夜まで麻雀。
食事は日本食堂だから和食が色々有る。
食事代は場所代に含まれてゲーム中は食べ放題。勝てばタダ。
最初の数ヶ月(3ヶ月ぐらい)はルールに慣れずに負けたが、そこからは、平均するとタダで麻雀と食事が出来るように成った。

メンバーは食堂の親父さんの他に駐在員さんや現地採用の方、遊び人さんなど。
自分で商売をされている方も居た。
(その内の1人に「売掛金が入るまで金を貸して」と言われて20万バーツ貸して、17万バーツほど未回収に成ったのは痛い思い出)
(この方、何人もから借金をしていて、「債権者会議を開いて取り立てに行こうか」何て話もあったが、結局みんな踏み倒したと思う)

年末などはみんなで忘年会をやったり、遊び人さんにバンコク内を色々案内して貰ったり、面白かった。

その内、タイに居る時間の方が長くなったので、成田のアパートは1年ぐらいで引き払って、日本の拠点は杉並の家に戻した。
タイではタイ語教室に通ったりもした。

この頃、今の奥さんと知り合って、子供が出来たので2004年4月頃(?)広いアパートに引っ越して、5月に結婚式、6月に日本で籍を入れて(この時52歳)、7月にタイの籍も入れた。
娘は同年9月に誕生した(この時、自分は53歳)。
(自分の両親も「出来ちゃった婚」だが、自分も「出来ちゃった婚」)

その後、バンコクでは1年半ぐらい暮らして、2006年の初め頃(?)(自分は54歳)、奥さんの強い希望でチェンライ県のパーン郡という奥さんの出身地に家を建てて移った。

長く成ったので今回はここまで。
以下、チェンライでの話は「7回目の兎年(その5)」へ続く予定。


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昔の話」カテゴリの記事

コメント

「できちゃった婚」
そんな結婚、僕もしてみたかったです。

僕は引き籠もり「ヒッキー」で、恋愛もないです。
ヒッキーするためにタイの北の端っこまで行ったのですが、それも束の間、日本人が北の端まで降って湧いて出てくるようになりました。2000年過ぎた頃のことです。

それでイサーンの方に逃げたのですが、ネット社会になりイサーンもいいぞということで日本人が、ドンドン押し寄せてきて、面白い所教えて教えてって、付きまとわられました。
それで、もっと奥地のラオスの山の中やタイの東北部のベトナム系の街に逃げ込んだのですが、そこにも日本人がいて、くっついてくるので迷惑でした。

名人さんは、タイで直ぐにロマンス状態、まるで日本の厳しい労働という地獄から、毎日ロマンスいっぱいの天国にきたような「天国と地獄」編だったのですね。

まさに小田和正の名曲「ラブ・ストーリーは突然に」、奥様を初めて見たときからビビッと来たわけですね。

次回は、名人さんの「ロマンス」「ラブストーリーは突然に」の番外編スペシャル・ラブ・ストーリーが聞きたいです。

僕は18年間もタイにいたのに、そんなラブ・ストーリーは一度もなかったです。

いつもコメントありがとうございます。

自分の場合の「出来ちゃった婚」は偶然ではなく、ある程度予想していた事でした。

今はタイに移住して来る日本人は準移住も含めて2000年頃よりは減っているようですね。
ラオスの山の中まで行かれたのですか・・・そういうのも面白そうですね。
いまでも、ちょっとそういう冒険をしてみたいと思ってます。

とても興味深く拝読いたしました。

貴兄にならって自分史年表を作ってみたんですが、改めて人生の短さを痛感。
なにせ、エクセルで百行にもならないんですから・・・

祖父の代からタイとは付き合いがあったんですが、自分が関わるようになったのは貴兄とほぼ同時期だったと知りました。
結婚したのは貴兄より一年前、子供は同学年ですね。(以前はウィッタヤーコムに通ってました)

シングル・ファーザーになり、子供はチェンライに建てた家に義父母と暮らし、私は訳あって日本から長期には離れられないので別居状態。
どう考えてもタイの学生生活の方が日本でより楽しそうに思えるのでタイの学校を選んだわけですが、子供は日本の大学を希望。
学力的に難しいでしょうから、「まずはタイの大学を出てから日本の大学に行きなさい」、で話が決まりました。
とりあえず、大学は二校に合格。(国立と公立。タイは私立の方が難しいようです)

というわけで、貴ブログをとても参考にさせて頂いております。(感謝)

KP様、コメントありがとうございます。

似た様な歴史を持たれている方にブログを読んで頂いている、というのは何となく嬉しいです。
今後とも、よろしくお願い致します。

拝読していて、資産面での貴我の大きな差の理由が分かりました:

1.遊びが麻雀。ほとんど負けておられない。(生涯収支は大きくプラスと拝察します。)私は、麻雀、パチンコと30年くらい付き合いました。どれも大負けです。

2.住宅資金が少なくて済んだ。(我々の世代で、都心の会社に勤務する者は、住宅購入資金の元利払いで1億円くらいはかけているのではないでしょうか。)

3.株式投資の巧拙の違い。(私は生涯収支で依然として大きくヘコんでいます。89年末以来の暴落で大損を出したのが尾を引いています。)

以上、すみません、戯言でした。お笑いの上お読み流しください。

P様、コメントありがとうございます。

1.麻雀は平均して勝ってますが、場代とか足代を含めるとトントンぐらいかもです。
2.この要素は大きいです。
会社員時代も両親の家から通勤してましたので住居費はほぼZEROでした。
毎月少し親にお金を払ったり、家のリフォームの資金(100万円とか)を一部負担したり、というのは有りますが、全体から見れば小さいです。
3.今、自分が暮らしていけるのは株の勝ち分のお陰です。
4.あと今は奥さんが居るので、支出を思う様に抑えられませんが、それ以前は余りお金を使わなかったです。

こんにちわ、迷人さんとはいろいろ似通っているところがあるので、興味深く読ませてもらっています、迷人さんとの一番の違いは財力の違いで(笑)子供が3歳の時に仕方なく日本に脱出しました、今は年金で細々と二人の娘の子育てをしています、ただタイ人の奥さんは働き者で白子で玉葱(白子の玉葱はブランドですよね)や落花生を作っていてす、それで、すごいお金持ち(笑)それでもタイ人奥さんにありそうな基本の生活費は日本人持(泣)そりゃあたまるわ、最近思うのは彼女はタイ人の日本での成功者と言われるんだろうなと思ったりしています。

ぼいやい様、コメントありがとうございます。

働き者の奥様、いいですね~。
白子の隣町の大網に家を持ってますが、あの辺は気候温暖でいいですよね。
娘さんを連れて九十九里の海岸で遊ばれたりするのですか。
自分は娘が小学校1年の時に日本の小学校に入れたので、その頃、九十九里の海岸に遊びに連れて来た事があります。

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