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2023年1月10日 (火)

7回目の兎年(その2)

2023/01/10(7回目の兎年(その2))

7回目の兎年の年頭にあたって、これまでの自分の約71年の半生(残りの期間からいって、「半生」というよりは「5分の4生」ぐらい?)を振り返って見よう、記録して置こう、という企画の2回目です。

今回は12歳~24歳までの話です。

「青年期」というのはいろいろな説があって、グーグルで調べたら11歳~20歳とか13歳~22歳とか、10歳~30歳とか書かれていた。
まあ、12歳~24歳を青年期と言っても間違いではないであろう。
今回はその「青年期」の話。

1964年4月、12歳の時に中学入学。
1967年4月、15歳の時に高校入学。
1970年4月、18歳の時に大学入学。
1974年4月、22歳の時に社会人1年生。

自分の歴史を振り返る場合、「単調」なのも1つの特徴で、学生時代に留年とか浪人とかの経験は無いし、会社に入ってからも転職とか転勤も無い。
最初に入った会社に50歳まで居て、退職後に再就職とかも無い。

青年期というのは人生で、一番重要な時代、一番変化の多い年代、一番楽しい年代、だと思う。

この時代に、その後の一生の大体のところが決まる人が多いのではないか。
小学校卒業までは誰も同じ様な感じで、一生の中での枝分かれがされるのが青年期、その後の進路(医者に成るとか、教師に成るとか、技能職に成るとか、フリーターに成るとか)が青年期で決まる事が多い。

自分の場合も、中学、高校、大学、社会人、と変化は有ったが、当時の同世代としては一番ありふれたコースを辿った。
この間、中学は東京都日野市の家から通ったが、高校、大学、社会人は東京都杉並区の家から通った。

今から考えると、此処で1つの選択ミスをしたと思う。
社会人に成った時、家を出るべきだった。
仮定の話だが、家を出て独立した方が、自由に行動出来て良かったのではないかと思う。
結局家を出たのは、50歳に成ってからで、此処から行動が前向きに成った。

チェンライに暮らして居る同胞には、20歳前に上京して来て、20歳前に結婚して・・・、とか、そういう話を聞くと自分はこの時点で大きく出遅れたような気がする。
早く独立すべきだった。のんびりし過ぎた。

一番楽しい年代というのは・・・?。
確かに全体的に見れば楽しい年代だったと思うが、もっと遊んで置くべきだった、そこは一番後悔している。

この時は見えて無かった。
このまま楽な生活をしていても、自然に状況は変わる。
焦って失敗するよりも、状況が好転するのを待った方が得策・無難。
焦る事は無い、努力さえしていれば状況は好転する、と思っていた。
今から考えると、その「努力」の方向性が間違っていた。

此処は(勉強も、仕事も、人間関係も)積極的に動くべきだった。

それでは各年代別に・・・。


中学時代。

特にブログに書く様な事も無い、ありふれた中学生だったと思う。
元々運動は余り得意ではない、英語以外の成績はまあまあ。
人付き合いは苦手意識は有ったが、普通だったと思う。


高校時代。

入学した最初の学力テストで3百何人中、3百番台で(330人中310番目とか、そのぐらい)いきなり劣等生に成った。
少ない友人は居たが、どちらかというと孤立していた。
ここは人生の暗黒期(今から考えると懐かしい思い出も有るが)。
世の中には嫌な奴も居る、卑怯な奴も居る、というのを強く感じた事も有った。

この時、もっと自分自身を俯瞰的に見る事が出来たらと思うが、それは結果論で当時はそんな余裕は無かった。

担任が英語の教師で、劣等生扱いされた。
これで英語嫌いが決定的に成った。
思ったのは、「アメリカ人なら小さい子供だって英語が話せる」「別に英語が出来れば偉い分けじゃない」「数学や物理が出来る方が頭がいい」だった。

成績の方は、特に努力をした気は無いが最高25番目まで行ったので、まあまあに成った。
多分、入試の時、自分のレベルより高い高校に合格して、追い付くのに時間が掛かったという事だと思う。
(最後まで、英語は全然ダメで嫌いだったけど)
(今は思ってないが、当時はアメリカに媚びを売るのはバカバカしいと思っていた)


大学時代。

高校時代、真面目に勉強しなかったので、名乗れる程の大学には入れなかった。
その分、勉強は楽で遊びにエネルギーを集中出来た。

ここで、いきなり麻雀を覚えて、それが生涯の趣味に成った。
多分、授業がまだ始まる前、オリエンテーションの時に周囲に居た人達と意気投合して麻雀を教えてもらう事に成った。
S君という、ちょっと年上の麻雀の上手い方が居て、他の3人(4人?)は初心者だった。

S君には敵わなかったが、他の仲間よりは若干いい成績だったと思う。
まあ、勝っても学食のうどん代が出るくらいの賭け(?)だったが。

朝、学校の門の前に着くと、3人が待って居て、そのまま裏門から出て馴染みの雀荘に直行なんて事も結構あった。
(当時はスマホなんて無いから、実際に合ってみないと分からない)
雀荘で数時間麻雀をやった後、そのままメンバーの下宿に行って朝までとか、も良く有った。
(麻雀もやったけど、コントラクトブリッジなんかもやった。囲碁も少しやった)
真夜中に食べた「おでん」が美味しかった。

工学部だったので女性は少なく、他の大学と合コンをやって、女性と付き合う何て事も有ったが、長く続いた事は無い。

大学時代にやったイベントで一番記憶に残って居るのは、網元の息子が居て、彼の家の船で佐渡ヶ島沖まで漁に出て、イカ釣り船だったのだけれども、結局、凄い船酔いで元気が有ったのは最初の数時間のみで、後は数日船の中で仲間5人全滅、寝たきりだった。
もう吐くものが無くなって、胃液みたいのが出て、ゲーゲーやっていた。
(船員さんが4~5人規模の漁船)

新潟の桟橋に着いた時は「助かった~!」と思ってホッとしたが、暫くの間、地面がグラグラ左右に傾いていた。
平衡感覚が正常では無く成っていた。

それでも、いい経験に成ったと思う。
良かったのは、網元さん(友人のお父さん)の家でご馳走に成った海鮮物が美味しかった事で、特に食べ放題のイカソーメンの旨さは忘れられない。

他にも卒論の為の泊まり込みの合宿、とか、みんなで大学野球の応援に行ったりとか、デモに参加して機動隊が目の前に現れると一目散に逃げだしたりとか、大学時代は面白い事が沢山あった。
デパートの食品売り場の売り子のアルバイトや、お祭りの神輿担ぎのバイトなんかも面白かった。

麻雀のメンバーとは今も年に数回(ここ2~3年はコロナで回数が減っている)新宿や新橋で飲み会やカラオケをやっている。
まあ、卒業してから50年近くも経つと、他界されたり、借金取りに追われて行方不明になったり、色々あるが、まだ、多くのメンバーは変わらず元気にしている。
まだ現役で仕事をしいる方も居る。


社会人1~2年目。

当時流行り出していたコンピューター関係の仕事がやりたかったので、学生時代から個人的に勉強していた。
そういう情報処理関係の会社に就職して、システム分析関係の職場に配属された。

最初は燃えていた。

COBOLというブログラム言語で、プログラムを作る作業をした。
これは結構面白かった。

この会社、当時はそれ程とは思わなかったが、今の基準で言うとかなりのブラック企業だった。
福利厚生とか給与体系とか作業環境とかは特に悪くない。
残業をすれば残業手当もきちんと出る。
残業カットなんて事は当時は無かった。

何がブラックかと言うと、仕事量が半端なかった。
仕事の内容としては面白いので初めの内は残業とかも気に成らなかったし、周囲もみんな残業していた。
自分が残業に成るのは未熟な為でしょうがない、もっと上達すれば、こんなに残業する事も無くなる、と思っていた。

しかし、残業は無く成らなかった。
作業効率が上がるにつれてそれ以上に仕事量が増えた。難易度が増した。
周りには、「凄いな~」と思う程、手際良く正確に仕事をする人が大勢いて、自分が残業に成るのはしょうがないと思ったが、20代前半の貴重な時間を仕事ばかりやっていていいものなのか、とも思った。

まあ、それでもこの頃は燃えていた。

実力を付けてもっとみんなが驚く様な仕事をしてやろうと思っていた。

ストレスが溜まって麻雀は結構やったけれども、それ以外は仕事だけだった。
休みの日でも仕事の事を考えたり、休日出勤もした。

今考えると、ここでも、ちょっと方向性を間違ったかもしれない。
まあ、入社1~2年目だから、他の事は考えず仕事にかなりの比重を置く、というのはある程度正しい考えだと思うが、それ以外に、もっと周りをよく見て、人間関係を考えるとか、そういう事をすれば良かったと思う。

時間があれば麻雀出来る仲間が居れば当時は満足だったが、もっと戦略的な人間関係とかスキルの構築とかをして置けば良かったかもしれない。


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コメント

大学の時に、生涯の御趣味の麻雀を見つけ、お友達との沢山の交流や旅、恋愛があったことは、いつまでも記憶に残る、とても良い思い出だし、それ以後、活かされることになったことを思えば、今振り返れば素晴しい大学生活、青春時代だったのだと羨ましく思います。

私など大学では教員免許(結局、5つ免許を取った)を取るために230単位(大学卒業単位は普通138単位)取ったので、今から思えば辛い大学時代でした。

当時の情報処理関連の会社って想像を超えて過酷だったんですね。
朝ドラ「舞いあがれ」の主人公の舞ちゃんの幼馴染の貴司君は情報処理関連会社の激務で自分を見失い、若くして辞めてしまうというストーリーでした。
名人さんは、そういう過酷な会社に長く御勤めができたのも、心を癒やす麻雀や親しい仲間がいたからって想像するのです。

名人さんのように、今、振り返れば、楽しい思い出の方が多く思い出されるって言うのは、つまるところ、良かったんです。

名人さんの青春時代を読んでいたら、楽しさが伝わってきました。

コメントありがとうございます。

教員免許も申し込みましたが、遊びの方に向かってしまいました。

システム分析やプログラミングが大変なのは1つのミスがとんでもない結果を招く事で、それが見付け難い事、チームを組んで仕事をしていてもミスを見付けるのは、そこの部分を担当した個人でないと難しい事、などです。
仕事の質が個人に集中し易い作業で、一旦「ドツボに嵌る」となかなか抜け出せない事です。

会社員という立場は最後まで好きでしたが、嫌な事も当然ありました。
ブログには書かない、書きたくない、事も有ります。

荻窪、大網、八ヶ岳と3軒もの家をお建てになったお父様には感服です。
大兄にとってご尊父さまはどのような存在であられたのでしょうか。(ご母堂様が人格者で、大兄を慈しんでお育てになったことは、長年の愛読者として、全体の雰囲気からよく理解できます。)

S様、コメントありがとうございます。

父は社会的に見て「成功者」でした。
堅実に仕事をし、浪費もせず、家族を困らせる事もしなかった、そういう点は立派でした。

父の到達点は「別荘を2つも持っている、郵便局長さん」。
しかし、自分は、成り上がり志向にそれ程の意味を感じないです。

母は、極めて普通、常識を理解している、穏やか、そんな人でした。

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