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2023年1月12日 (木)

7回目の兎年(その3)

2023/01/12(7回目の兎年)(その3)

自分の歴史を12年で区切ってふり返って見るこの企画、実は初めから解っていたが、会社員時代って書く事(書きたい事)が余り無い。
当時は、一生懸命仕事をしたし、遊びもまあまあした、と思っているが結果として殆ど何も残ってない。
つまらなくは無かったが、結果として眠っていた様な会社員時代だった。

会社員は1974年4月(22歳)~2001年10月(50歳)まで、27年と6ヶ月やった。
兎年で括ると24歳~36歳、36歳~48歳と2つの期間に大部分が収まるので、今回は24歳~48歳の「会社員時代」として纏める事にする。

尚、会社員の頭の方は新入社員時代(22歳~24歳)として前回の「青年期」に書いた。
尻尾(48歳~50歳)の部分はタイにかかわり始めた時期で、それは、次回の48歳~60歳の「タイ生活前期」に書く事とする。

漫画の「島耕作」だと会社員って、派閥争いとか、出世競争とか、新規事業の立ち上げとか、オフィスラブとか、不倫とか、随分楽しそうな事をやっているが、自分の場合は、そういう事に殆ど無縁だった。

抜擢も無ければ左遷も無い、転勤も無い、私生活でも東京都杉並区の家からの通勤を繰り返すだけ、入院するような病気に成った事も無い、事故や事件に巻き込まれた事も無い、ただただ忙しく仕事をしていた。

と書いて、これで終わらせる分けには行かないので、会社員時代に合った事や今考えている事を幾つか書いて見る。

まず、この時代の失敗は何と言っても「人生やるべき時にやるべき事をやって置くべき」という事。
異論のある方も居ると思うが、ここは、「家庭を持って子供を育てる」時期だと思う。
それをやらなかったが為に今、71歳にも成って未だに子育てをやる羽目に成った。

・・・まあ、それはそれで面白いが・・・。

「モテなかった」のでしょうがないが、島耕作さんみたいにオフィスラブとかやりたかった。
ちょっとだけ、「モテキ」を感じた時も有ったが、その時期に決めて置けば良かったかもしれない。

こういう話は、チェンライ在住の邦人には恵まれて居た方が多くて、とっかえひっかえ、とか、不倫とか・・・。
不倫なんて、自分はそのスタートラインにも立てなかった。
(チェンライの邦人の多くは日本での婚姻歴があるが、単身でタイに来られた方が多い)
(みなさん、日本で随分楽しい思いをされた様だ)

仕事は、プログラミングとかシステム作成をやっていた頃はメッチャ忙しかったし、ストレスも強かった。
それでも、面白かったが、ノイローゼみたいに成った事も有る。

有る仕事で、客先に出向いて新システムのインストールをする仕事が合って、これが全然動かない。
システムを開発した機種(ユニシス)と顧客の機種(IBM)との違いが容易に乗り越えられない。
客先には1人で出向いていたので、自分1人で解決するしかないが、基本的な知識が無い。
そこで渡されたのが、IBMの辞書みたいに分厚いマニュアルで、これが英語。
このブログで何度も書いているが、自分は英語が苦手で大嫌い。
もうお手上げ、頭がまっしろ、目が点、って感じだった。

某有名組織のある業務のシステム担当に成って、その本番の処理中にプログラムミスで作業がストップした。
時間的余裕が有ればいいが、ギリギリのスケジュールで作業をしている。
社会的に大きな注目を集めている業務で、遅れたり、問題が有れば、翌日か翌々日の新聞紙上を賑わす事はほぼ確実。
しかし、システム上の問題というのはそう簡単に分からない、解決には時間が掛かる事が多い。

・・・迷人、大大大ピーンチ!、真っ青!!!・・・。

結局、自分では解決出来ずに前任の担当者がミスを見付けてくれて、処理を終わらせる事が出来たが、会社の上層部や顧客のお偉いさん達を含めて大騒ぎだった。
(ただし、業務の性格上、知っていた人数は限られていたと思う)

他の組織の似た様な業務で新聞紙上を賑わしていた事も結構あったし、規模は違うかもしれないが、「システム障害で○○が出来ない」なんてニュースを聞くと、「担当者は真っ青だろうな~」「きっと、問題が解決する迄、寝る事は出来ないだろ~な~」、と今でも思う。

自分の場合、効率化を追求するのは得意な反面、手を抜く事も得意(?)で、この仕事環境には適して居なかったのかもしれない。

仕事はきつかったし、残業時間とかも多かったが(家に帰って寝る時以外は、土日も含めて全部仕事なんて時も結構あった)仕事も工夫したり、上手く行った時は面白かった。
社員も理工系が多かったので、そういう面で似た様な感じを持つ事も多かった。
麻雀や囲碁・将棋も強い人が多かった。
社員旅行とかクラブ活動的な合宿とかも面白かった。

まあ大変だったけど、面白い事も多かったので会社(または会社員という立場)は好きだった。


両親等の事を少し書くと、杉並に引っ越したのは父が、郵便局の局長に成った(郵便局を建てた)為で自宅と郵便局がくっついた建物だった。
母は暫くはその郵便局で父と共働きをしていたが40歳ぐらいで退職して専業主婦に成った。
祖母はその少し前に他界した。

この頃は、経済的には少し余裕が出て来ていた。
まあ、家族全員、無駄遣いしない性格だったし、みんな勤勉でそれなりの仕事をしていたし、当然といえば当然だったと思う。

自分が30歳の頃には、父は別荘地を探し始めて、休日に私の車で、千葉県(勝浦など)や山梨(甲府の近く、竜王の辺り)に良く下見に行った。
結局、山梨県の小淵沢町に別荘地を買って、此処に別荘を建てた。
自分としては勝浦の小山の上の土地が、海岸線を見渡せる絶景の地で、ここに別荘立てたらいいな~、と思ったが父の別荘だったので、自分が口出しする事では無かった。

小淵沢町(今は北杜市)の別荘には会社の友人達を連れて行ったりしたので、そこからは自分は別荘を持っているお金持ち、という事に成ったらしい。
実際には田舎の土地何て金額的には大したものでは無かったし、父にしても、有り余るお金が有って別荘を建てたというよりも、別荘を建てるお金は有った、という程度で、別に金持ちという事では無かったのだが。

父は63ぐらいまで郵便局長をやった後、退職した。その時自分は40歳ぐらいだった。
(正確に記憶が無いが、自分は父が23歳ぐらいの時の子供だと思う。因みに父も(私も)出来ちゃった婚)

退職後、父は今度は千葉県の大網に土地を買って、そこにも別荘を建てた。
別荘を建てるのは父の趣味みたいなものだったと思う。

ここから両親は、夏は小淵沢(北杜市)(八ヶ岳山麓の涼しい別荘地)、冬は大網(千葉県)(温暖な房総)、その間に杉並の家に立ち寄る、という生活に成った。
ずーっと杉並の家に居た(ここから通勤していた)自分は、ほぼ1人暮らしに成った。


あと、最後に1つ。

ブログの最初に「(会社員時代は)殆ど何も残ってない」と書いたが、敢えて上げれば1つだけ残ったものが有る。
それは30代前半ぐらいから始めた株で、実際に成果が上がり出したのは40代に成ってから。
ここで、信じられないくらい儲かった。
もう給料は無くても一生困らない、と思うくらい儲かった。
しかし、その半分以上は1999年~2000年頃(50歳前後)のITバブルの崩壊で失ってしまうのだが・・・。

以下、「7回目の兎年(その4)」、タイ生活前半(48歳~60歳ぐらい)へ続く予定。


ここまで、筆者の個人的な歴史にお付き合い頂きありがとうございます。最後にもう1つ。
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コメント

仲の良い御両親のいる御自宅から大学に通い仕事に通うのは、幸せなことですよね。
なんとも羨ましい限りです。
名人さんは、ご両親のように郵便局の局員になろうとは思わなかったのですか?

私の地域はエプソンの会社員が多く私の父もエプソン勤務(大和工業→セイコー社→セイコーエプソン→エプソン)でした。
今から思えば高卒でエプソンに両親のいる自宅から通勤するほうが幸せだったと思います。
両親が不仲だったので大学生活や公務員異動で自宅から離れたときはホッとしたのですが、今から思うと両親の近くにいれば良かったと思っています。

名人さんのように、東京で、ずっと仲の良い御両親と共に暮らしたというのは本当に幸せな日々だったと思います。
帰国し荻窪の御自宅に帰ったときは、いろいろな思い出が蘇ることだと思います。

コメントありがとうございます。

確かに喧嘩とか言い争いは殆ど無かったです。

事務的な仕事は面白味が無いと思ってましたが、そういう仕事の方が楽で良かったかも、と思う事が有ります。

仕事は忙しかったですが、家とか会社とか安定はしてましたので、そういう意味では楽をしてました。

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