7回目の兎年(その5)
2023/01/17(7回目の兎年)(その5)
自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳ぐらいの話の後半。
前回は54歳の時バンコクからパーンへ引っ越したところまで書いた。
今回はそこから60歳ぐらいまでの話。
西暦 タイ歴
2006年(2549)4月頃、54歳、バンコクからパーンへ移転。娘1歳。
2008年(2551)4月頃、56歳、シビック購入、&娘、幼稚園1年。
2009年(2552)頃、インターネット接続。
2010年(2553)頃、父他界。
2011年(2554)4月、59歳、娘、小学校1年(日本)。
2012年(2555)5月、60歳、娘、小学校2年(タイ)。
2006年4月に54歳の時、奥さんの強い希望によりバンコク(当時はラッチャダーのスーンワッタナータム=MRTのタイ文化センター駅近くのコンドミニアムに住んで居た)から奥さんの出身地のチェンライ県パーン郡に家を建てて、家族3人(この時、娘1歳)で移って来た。
パーンの家は当時はチェンライ空港から車で1時間程掛かり、市内からも30分程掛かる。
チェンライ県といっても、市内からは遠いかなりの田舎。
家の裏側は田圃、ていうか家自体が田圃を埋め立てた上に建って居る。
直ぐ近くには奥さんのお婆さんの家、木造高床式の家が有り、一番上のお義兄さん夫婦もその近くの木造高床式の家に住んで居た。
この頃は村の家は殆ど木造高床式の家だった。
まるで古代にタイムスリップしたような村。
木造高床式の家でも、御殿の様な高級感のある家も有るが、当時村に建って居た家は、失礼な言い方をすれば「あばら家」だった。
まあ、隙間だらけでも屋根さえしっかりしていれば熱帯だから、風通しが良くていいかもしれない。
商店も殆ど無く、150mぐらい離れた所に雑貨屋みたいのが1軒有っただけ。
その代わり、朝市とか夕市は100mと200mぐらい離れた所に有った。
土地で取れる野菜・果物とか、魚の干物(プラートゥー)とか、タイ風の焼き鳥、とか売っていたが欲しい様な物は殆ど無かった。
こんな所では文化的な生活は無理だし、まともなタイ料理すら食べるのも難しい、まして和食など絶対無理、そういう環境だった。
別に逼塞して暮らす必要も無いし、逼塞して暮らす積りも無かったが、車も無かったし、このままではそういう事に成ると思った。
流石に、この土地で、この土地の人達のような生活をするのは無理だと思った。
取り敢えず食事だけは何とかしなければならない、という事で、週に1回ぐらいはお義父さんの車でBIG-Cなどに買い出しに出掛けた。
当時はBIG-Cが一番便利だったが、パーンの町のタラート(市場)にも結構行った。
でも、この頃は日本食に使えるような食材は余り手に入らなかった。
調味料などは日本に帰国した時にキャリーバックにぎっちり詰めて持って来ていた。
日本食材が揃え易く成ったのは2013年にセンタンが出来てTOPSで買い物が出来るように成った頃から。
お義父さん夫婦は家からは車で20分ぐらい離れた所に住んで居たが、家には良くやって来た。
お義父さんの車が使えない時は、ソンテウやバスでチェンライの街まで行ったり、そこで、車をレンタルしたりしていた。
奥さんはバイクで近場なら買い物に行けたので、自分もバイクに乗ろうとして、最初の1回目でアクセルとブレーキを間違えて隣の家の生垣に突っ込んで「バイク禁止」に成ってしまった。
田舎の生活は情報に関しても世間から隔絶された様な状況で、これも何とかしなければいけない。
チェンライの街に出た時は1日遅れの読売新聞を買った。
テレビは衛星アンテナを付けてインドとか海外の放送も見れる様にした。NHKワールドが見れた時も有ったが、英語放送が殆どで余り役に立たなかった。衛星アンテナは故障が多い、という問題も有った。
この頃は、帰国した時に本を沢山買って来て、それを読んで渇望した情報不足と持て余す時間を紛らしていた。
2008年の5月頃、娘が幼稚園へ通う様に成って、その前に車(今も使っているシビック)を買った。
これで買い物が自由に出来る様に成って、行動の自由も少し広がって、やや、普通の生活に近付いた。
車を買う条件と、娘を家から少し離れた私立に入れる条件として、「送り迎えは奥さんがやってね」という事にして、これは今迄ほぼ守られている。
食事を作るとか、掃除をするとか、家事を信じられないぐらいしない奥さんだが、娘の送り迎えだけはちゃんとやっていて偉いと思っている。
2009年頃(実はここは良く覚えて無い)インターネットが引ける様に成ってTOTのインターネットを引いた。
それ以前は回線が村まで来て無くてインターネットを引きたくても出来なかったが、インターネットが引けたという噂を聞いて、直ぐに動いてインターネットを引いた。
これで、ニュースとか株価とかの情報は世間並に入手出来るようになった。
ネット情報は、ほぼ、日本に居るのと変わりなく入手できる。
(一部、海外からは見れない情報も有る)
(今では、株の売買は日本と同じに出来るが、当時はまだネット取引はやって無くて、インターネットが入って暫くしてからネット取引の手続きをした)
それまでの、情報から隔絶された生活から解放された。
車とインターネットが揃ってやっと、少し文化的な生活、普通の生活、が見えて来た。
今では、インターネットが無くてもスマホが有れば、随分違うと思うが当時はまだスマホは普及して無かった。
2010年頃父が他界した。実は、正確にいつだったか、何歳の時だったか覚えてない。日本に行けば分かるが、今、手元に資料が無い。
多分、父81歳、自分が58歳の時だと思う。
この直後に、母の認知症が表面化したが、最初から施設に入った分けではない。
ケアマネジャーさんと相談しながら、訪問介護とかディサービスとか最後は介護施設への入所とか段階を踏む事に成る。
自分はこれ以前も年に5回ぐらい、日・タイを往復する生活をしているが、母が認知症に成って、それを続ける必要性が増した。
2011年4月、自分59歳、娘6歳、の時に娘を日本の小学校に入学させた。
ここから1年間、家族3人で東京都杉並区の家で暮らす事に成る(母も入れて4人)。
1年日本に居て、学校にも通わせれば、日本語を覚えるのではないかと思った。
結果的に、この目論見は見事達成された。
(最初はもっと前に日本の幼稚園に入れようとしたのだが、それは幼稚園側に断られた)
娘は日本国籍も有るし、杉並区民でもあるので、日本の公立小学校に入学するのは制度上は問題ない。
ただし、事前に入学予定の学校と打合をせして、日本語が不自由である事を話して、娘を日本語に慣れさせるための専門家を付けてくれる事に成った。
杉並区では(?)元々そういう制度が有ったらしい。
(週に2~3回、1時間ぐらい、1対1の特別授業が有った)
帰国子女の親の情報交換会みたいのも区の主導で行われた。
集団登校の付き添いなどのPTA活動もやった。
30代ぐらいの奥様方に混じって60歳の爺さんがPTA活動というのは、ちょっと浮いていた感じだったが、最低限の役割は果たした。
運動会などの見物にも行った。
父兄会みたいのも有って、奥さんは出来ない(日本語が話せないので無理)ので、自分が「父兄」の役割を果たした。
ちょっと恥ずかしい感じもしたが、色々な活動は新鮮で面白いと思った。
入学式の時に、親から離れて行く時にワーワー泣いたが、帰って来た時にはケロッとしていた(と思う)(正確に覚えて無い)。
3ヶ月もしたら、自分との会話も日本語に成った(それまではタイ語で話して居た)。
娘が日本の学校に通たのは、1年生の時の1年間と、3年生~5年生までの4月だけだが(4月はタイの学校は休みで、その間に日本の学校に1ヶ月だけ通わせた)今ではほぼ普通に親子の会話は日本語に成っている。
尚、奥さんは2011年の8月頃に在留許可が下りて、日本への滞在や日タイの移動が容易に成った。
(3年ぐらい在留許可を持っていたが、更新を止めたので今は持って無い)
2012年4月、自分60歳、娘7歳、の時に娘をタイの小学校の2年に転入させた。
これは、娘が幼稚園の1年から3年まで行ったのと同じ学校。
パーン郡に有る私立の学校で幼・小・中の有る学校。
以下「7回目の兎年(最終回)」へ続く予定。
余談。
自分の人生にとって大きな出来事でも、正確な年月を思い出せないものが多い。
娘の学年とかは分かり易いが、父や母の事は結構覚えていない。
日本には何らかの資料が残って居るハズだが、タイに居ては見れない。
今回のシリーズは覚えている内に(資料が有る内に)ヒストリーを残して置こう、というのも一つの目的に成っている。
ブログはそういう記録を残すには役に立つと思う。
このブログを書き始めたのは2012年4月から、その時、自分は60歳なので、次回の記事を書く時にはブログの記録が役に立つと思う。
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