カテゴリー「昔の話」の4件の記事

2021年10月21日 (木)

FIRE

2021/10/21(FIRE)

初めての英語タイトル。

FIRE・・・FIREって言葉を聞いた時、fire って火の事?、火事の事?、と思った。
それにしては、会社を退職する話とかにFIREって言葉が出て来るので、何でそれがFIREなんだ?。
多分、自分がFIREのスペルを勘違いしていて、FIREは別の単語なのか、あるいは、お尻に火がついて会社を辞めるとか、そんな意味で使われているのかとも思った。

fire をグーグル翻訳で翻訳すると、「火災」「火」「火事」「射撃」とかの意味が出て来る。
これでは、最近よく聞くFIREの意味がやはり分からない。

グーグルで「fire」を入力すると、「fire とは」というのが有ったので、それで検索してみた。
すると・・・。

FIREは「Financial Independence, Retire Early」を略した言葉で、「経済的自立と早期リタイア」という意味らしい。

別に、お尻に火がついて収拾が付かなくなって会社を辞める、という事では無いらしい。

なんか最近流行っている言葉らしいが、なんの事はない、自分が20年前にやった事だ。
っていうか、チェンライの知り合いの殆どがFIRE人だ。
新しい事でも、珍し事でも、何でもない。


まあ、ちょっと思い付いたので自分のFIRE人生(?)について語ってみたい。

自分の場合、最近よく聞くFIREというのとはちょっと違うが、結果としては今の FIRE に似ている。

今の FIRE は、「早期リタイヤを目指して計画的にお金を貯める、そのお金を投資で運用して増やす、生涯に使うお金を計算してリタイヤ出来る見通しが立ったらリタイヤする」そんな感じのものだと思う。
最初から「早期リタイヤ」という目標が有って、そのために資金管理と運用を行う、そういう事。

しかし、自分の場合は最初から早期リタイヤという目標が有った訳ではない。
資金の運用、投資はしたが、それも老後の蓄えという気持ちも有ったが、どちらかというと、ゲームのコイン集め感覚に近かった。

ちょっと考えが変わって来たのは、1990年頃から(正確に覚えてない、もう少し前からだったかも知れない)、遊びでやっていた株が儲かり出した事。

・・・このお金で何か出来るかもしれない・・・。

バブル景気の頃も少しは儲かったが、「凄く」なったのはITバブルの時。
この頃はほぼ100%儲かった。
証券会社の担当の方が、半分お世辞だろうけど「○○さん、どこから情報を仕入れているのですか?」と驚くくらい連戦連勝だった。

株の話を会社でする事が有って、「○○そんなに儲けたって使い切れないだろ~」と言われた。
この言葉は第1のターニングポイントに成った。

確かに、「もう給料が無くても一生お金に困らない」。
同時に、折角集めたゲームのコインの何か有効な使い道はないものかと考えた。

そんな時、在職25年で10日間の休暇が与えられた。
リフレッシュ休暇で何処か旅行にでも行きなさい、という事だったと思う。一時金のようなものも出た。

ここで、タイ好きの先輩に頼んで一緒にタイに旅行にやって来た。
これが第2のターニングポイントに成った。

・・・面白かった・・・

まるで昭和にタイムスリップしたような懐かしい感覚が心地よかった。
もう、会社なんか辞めて、ここでのんびり暮らすのもいいかな、と思った。

旅行から戻って、それでも仕事は普通に続けていたし、特に、リタイヤする為の準備というのはしなかった。
次に、旅行に行く時の為にタイ語の勉強をした事を除いては・・・。

約1年半後、第3のターニングポイントがやって来た。
会社が「50歳の社員に対し、今辞めれば退職金を少し上乗せする」という噂が聞こえて来た。
50歳目前の自分としてはこれはチャンスかもしれない。

別に、肩たたきをされた分けではないが、会社が、辞めたい方が居れば応援するので辞めて下さい、と言っているようなものなので、辞め易い。
退職金の上乗せ分は大した事はないが、何もない時に退職を言い出せば、元々の退職金が削られることを考えればやはりチャンスだ。

実は、この時、大儲けしたハズの株価はITバブルが弾け掛かって、大分目減りしていたのだけど、まだ、残っている。
自分は独り身だし、退職金、将来の年金、当面の失業手当、それに株資産などを足せば何とか成る。将来的にお金が不足すればその時、働いてもいい、そう思った。

退職を申し出た後暫く、3ヶ月程仕事は続けたが、その間も株は下がり続けてヒヤッとしたが、もう後戻りは出来ない。


という事で円満退職して、暫くは空港に近い成田に引っ越して、タイと日本を行ったり来たりの呑気な生活を楽しんだ。
その後、子供が出来たり、奥さんが出来たりして、タイに比重を置くように成って、成田のアパートは引き払って日本の本拠地は元居た杉並に戻した。
タイの方も最初はバンコクだったが奥さんの希望でチェンライに移った。

生活費の方は、暫く下がり続けた株もリーマンショックの前までに少し戻った。
大きかったのは、リーマンショックの時、株の持ち高を減らしていた事で、リーマンショックでのダメージが比較的軽く済んだ事と、その後の反転期に資金をつぎ込んで、その分の収穫が結構あった事。
自分にとってはリーマンショックはその後1年程度でみればかなりのプラスになった。

最近は何故だか良く分らないが、株価が高くなっているので、最近の生活費もなんとかなっている。
(実際には年金も有るし、そこに奥さんとか子供の加給年金も付くのでそれは意外と大きい)

まあ、株とか資産なんてフワフワしたもので、「一転して○○」なんて事も有るのでこの先も安泰とは限らないが。
しかも、リタイヤした最初の頃に考えた「将来的にお金が不足すればその時、働いてもいい」、という考えは、今となっては成り立たない。
自分の労働価値なんて二束三文にもならなくなった(高齢だからね)。
しかし、あれから20年経っているので、寿命とか考えるとそろそろ「逃げ切り」という気もする。

今敢えて、問題点を言えば配偶者の底なしの金遣いで、これはコントロールがちょっと難しい。


まあ、それ程計画的にFIREした分けではないが、結果的にはFIREした形に成って、もし、50の時にFIREしていなければ、今頃は天涯孤独で家で逼塞していたかもしれない。
(FIREと天涯孤独は直接の関係は無いが、FIREで吹っ切れて、自由にタイで動き回れた事が大きい)

配偶者や子供に気を遣う事もない生活も、それはそれでいいかもしれないが・・・?。



ブログ村ランキングに参加中。応援よろしくお願いします。

ポチッ  ⇒ にほんブログ村 海外生活ブログ タイ情報へ

にほんブログ村
http://meijin.air-nifty.com/blog/2019/08/post-6bb066.html

2021年6月26日 (土)

昔の遊び(狩猟採集)

2021/06/26(昔の遊び)(狩猟採集)

回数は多くないが、何かを、獲ったり、採ったり、した遊び(?)は、印象に残っている。

小学校1年の時に都心(中野)から郊外(日野市、当時はまだ田舎)に移って来て、都会とは違った面白さを感じた。
通学路の左右には田圃が有り、家の近くに森、雑木林も沢山あり、池や湧き水から流れる小川も何ヶ所か有った。

そういう環境で、ただ遊ぶだけでなく、自然の物(動植物)を取るのが面白かった。

ある時、農業用水路の水が干上がった(正確に言うと、水溜まりの様に成った)。
以前もその川でザリガニを取った事は有ったが、その時はいくらでも獲れた。
で、バケツいっぱい獲った。
家に持って帰ってエビ料理が食べられると思ったのだが、残念ながら、そのザリガニはすべて捨てられた。
今調べたところによると、アメリカザリガニは食べられるが日本では殆ど食べないものらしい。

水が湧き出ている小川では小さなカニを獲ったし、大きな川(浅川)では魚を獲った。

ある時、空気銃の打ち方を教えてもらって、撃たせて貰った事がある。
当然免許も無いので違法だろうが、もう時効。
誰かのお兄さんにやらせて貰ったがそれが誰かは記憶に無い。全く知らない人、雑木林の中でたまたま会ったお兄さんだったかもしれない。

最初は動かない物を目標にして撃って、結構当たった。
自分は上手いのかもしれない、と思った。

次に、野生の鳥に照準を合わせた。
この機会を逃すと、もう次は無いかもしれない、そう思って慎重に時間を掛けて狙っている内に鳥は飛んで行った。
それ以来、銃砲の類は撃った事が無い。
あの時、引き金を引いていれば多分当たったと思うので、それは今でもちょっと残念に思う。

・・・「あの時、○○をやっていれば」、というのは他にも色々ある・・・

人生なんて、そんな事が積み重なって出来ているのかもしれない。

ちょっと話がそれたけど、何かを「獲ろうとする」、のは本能みたいなもので、それに根差した自然の中での遊びは、他の遊びとは違った特別なものが有った。
特別なワクワク感。

「動物を獲る」ことから比べると「植物を採る」のは刺激が少し落ちるが、食べられそうな物を採るのは好きだった。

ある時はノビロ、またある時はつくし。
まあ、結構一生懸命採った割には余り食卓には乗らなかった。

栗拾いもやった。
これは結構食べたし、生で食べた事もある。

昔から、食料の自給自足には興味が有った。


余談。

今迄、栽培して食べた物。
木苺、苺、大根、人参、じゃがいも、キャベツ、トウモロコシ、茄子、トマト、カボチャ、しし唐、ピーマン、キュウリ、スイカ、ブルーベリー、枝豆、マンゴー、パパイヤ、バナナ、リンチー、タマリンド。

今迄、捕獲して食べた物。
鮒、アサリ、蟻(マレンマン)。

今迄、採取して食べた物。
アケビ、栗、タラの芽、ワラビ、ゼンマイ、フキ、ヨモギ、つくし、ノビロ、何かのキノコ。

多分、今思い出せないだけで、もっと沢山の種類の物を食べて来たと思う。

その内、世界的な食糧危機が来て、自給自足の知識のある者だけが生き残る、そんな世界が来たら・・・そんな事は無いか。
ま、そんな事に成ったら、自分など真っ先に飢えて死にそうだな。


ブログ村ランキングに参加中。応援よろしくお願いします。

ポチッ  ⇒ にほんブログ村 海外生活ブログ タイ情報へ

にほんブログ村
http://meijin.air-nifty.com/blog/2019/08/post-6bb066.html



2021年6月25日 (金)

昔の遊び

2021/06/25(昔の遊び)

4回前の記事、「昔の話」を書いていて幾つか昔の遊びを思い出したので、昭和30年代、自分の小学校(6歳~12歳)ぐらいの遊びの話を今回は書いてみようと思う。

小学校1年の1学期まで中野(東京都中野区)に居た頃の遊びの記憶は余り無いが、アパートの近くに空き地が有って、そこで近所の子と遊んだ記憶は微かに有る。
幼稚園の友達の事も少しは記憶に有るが、何をしたかは殆ど記憶にない。

近所に紙芝居屋が来て紙芝居を見た事や、学校の近くにカタ屋(注)が居て粘土細工に塗り絵の様な事をした記憶は有る。

(注、Wikipediaより)(カタ屋は、型(カタ)と呼ばれる素焼きの粘土型に粘土を詰めてその型の複製を作り、極彩色の粉色とともに子供たちに販売していた、昭和30年代後半から40年代に盛んだった露天商のこと。 主として、公園や空き地で店を開く姿が多く目撃されている)

自分がカタ屋でカタを買った(買って貰った?)のは、昭和32年頃(昭和30年代前半)なので、もしかしたらかなり先進的な遊びをしていたのかもしれない。

小学校1年の途中から豊田(東京都日野市)に引っ越してからは、やや野性的な遊びもする様に成った。
昭和30年代の初めの頃は「中野」もまだ自然が有ったと思うが、それでも都会で、それと比べると「豊田」は田舎で自然も豊だったし、田圃も雑木林も多かった。
また、住んでいた公団住宅のアパートが団地内の比較的大きな森のある公園に隣接していたので、その公園でもよく遊んだ。

小学校時代の遊びで一番印象に残っているのは木登りで、ある時、台風で森の木が1本倒れて、それが他の木に引っかかって、地面と2本の木で三角形に成った。
倒れて途中で引っかかった木は、地面から垂直に伸びている木より登り易く、しかもかなり高い所まで登れたので、そこからの見晴らしは素晴らしかった。
自分のアパートは2階建てだったが、倒れた木が他の木に引っかかった所は、その屋根ぐらいの高さが有った。

今から考えると、その木登りはちょっと危ない遊びだったかもしれないが、当時は、スリルは感じたけれども、それ程危ないとは思わなかった。
木の上の隠れ家的な感じで、そこから地上を見下ろして優越感みたいなものを感じていた。

ここじゃないが、腐った枝を掴んで、その枝が折れて木から落ちて病院に行った事も有る。


小学生時代の遊びで、木登りと並んで面白かったのはイカダ遊び。
家からはちょっと離れた所(徒歩30分ぐらい)に直径30mぐらいの池が有った。
そこで、自分達でイカダを組んで、竿で湖底を突いて、水の上を進む。
イカダを作る材料は、当時まだ公団住宅が拡張中で、使い古したスノコの様な木材がいくらでも有ったので、それを組んで作った。

有る時、航海中(?)に、作ったイカダが分解してしまい、沈没した事も有った。
記憶が薄れているが、たまたま、イカダが沈没した所が浅くて足が付いたので、どうという事は無かった。

因みに、この池は、自分達が遊んだ数年後に子供が溺れて死んで、囲いが出来て自由に遊べなくなった。
更に、十数年前に昔を偲んで見に行ったら、池自体が無くなっていた。
自分が遊んだ頃は、林の中の池、という感じだったが、人家に囲まれた小さな公園に成っていた。


池に落ちそうに成った事は他にも有る。

農業用の溜池か何かだと思うが、有刺鉄線で囲んである10m四方ぐらいの池が有り、そこに氷が張っていた。
多分、囲いの中に簡単に入れる穴か何かが有ったのだと思う。

中に入って氷の上に乗っていたら氷が割れて、落ちそうに成った。
で、咄嗟に有刺鉄線を掴んだ。
もしかしたら、有刺鉄線の尖って無い所を最初から掴んでいたのかもしれない。そう考える方が合理的だがハッキリ覚えていない。
溜池の端の方での出来事なので直ぐに脱出出来たが、手に怪我をした。


まあ、こんな風に、ちょっと危ない遊びもして来たが、それでも大きな事故もなく70年近くも生きて来た。
子供の頃の、ちょっと危ない遊び、というのはその後の危険を避ける為にある程度必要な事なのかもしれない。

また、自分の場合、子供の頃に田舎で遊んで得たスキルは、今でも、田舎で楽しく生活する為に役立っている。
日本なら北杜市に行った時、タイならパーンの田舎に住んでいた頃は、そういう経験が役立った。


小学生時代の遊びの記憶は、もっと書き切れない程有るが今回はこのへんで・・・。


ブログ村ランキングに参加中。応援よろしくお願いします。

ポチッ  ⇒ にほんブログ村 海外生活ブログ タイ情報へ

にほんブログ村
http://meijin.air-nifty.com/blog/2019/08/post-6bb066.html

2021年6月19日 (土)

昔の話

2021/06/19(昔の話)

自分は昭和26年の生まれ。
団塊の世代の終わり頃か、団塊の世代の直後ぐらいに生まれた。

最初は中野(東京都中野区)のアパートで暮らして居た。
まだ戦後の雰囲気が残っていた頃だと思う。
ボロボロのアパートで、便所は共同。お化けが出そうで、夜中に便所に行くのが怖かった。

部屋は6畳の部屋と2畳の部屋の2つ。
ここで、父、母、(母方の)祖母、私の4人、で暮らして居た。
父の弟さんや妹さんが一緒に居た時期も有る。
今の感覚から言うと極貧だが、そんな事は分からなかった。

近くには割と空き地が多かった様な気がする。
紙芝居屋やおでん屋、アサリ売りなどが来ていた記憶が有る。
缶蹴り遊びなどをした記憶も有る。

隣にお蕎麦屋が有って、時折、父に連れられてテレビの力道山(相手はルーテーズだったと思う)を見に行った事も有る。
今から考えると、これは結構贅沢だったのかもしれない。

何故か、年長のお兄さんに連れられて、自分達ガキども数人でラーメン屋に行った記憶も有る。
自分がラーメンを食べたのはこの時が初めてだと思うが、味は覚えていない。

兎に角、この頃の記憶は曖昧で、今ではピンボケの世界の出来事である。


小学校1年の時に、中野から豊田(東京都下日野市)に引っ越した。
多摩平団地という大きな団地で、1棟に6軒の家が連なる2階建ての家だった。

1階に4畳半と風呂・トイレ・台所が有り、2階には6畳と3畳の部屋が有った。
広い家だと思った。何より2階まで有るのが凄いと思った。

この頃、家(うち)は中流のど真ん中だったと思う。
両親共、公務員として働いていたので、個々の給料はそれ程ではなくても2人分だから、平均かそれよりちょっと上ぐらいの収入は有ったのではないか。
時は、高度成長期、昭和30年代の3種の神器、洗濯機、テレビ(白黒)、冷蔵庫を次々に買って文化的生活の基礎が整った。

冷蔵庫で出来る氷が珍しくて、氷を食べて、文化的生活を感じたりしていた。
この頃新発売された「渡辺のジュースの素(粉末ジュース)」も凄い物だと思った。

粉からジュースが出来る、まるで魔法・・・凄い!・・・


続編を書く予定です。


ブログ村ランキングに参加中。応援よろしくお願いします。

ポチッ  ⇒ にほんブログ村 海外生活ブログ タイ情報へ

にほんブログ村
http://meijin.air-nifty.com/blog/2019/08/post-6bb066.html




無料ブログはココログ

雑記帳フォト2014

  • 吉野家の牛丼
    吉野家の牛丼