カテゴリー「昔の話」の9件の記事

2023年1月23日 (月)

7回目の兎年(その5)

2023/01/17(7回目の兎年)(その5)

自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳ぐらいの話の後半。
前回は54歳の時バンコクからパーンへ引っ越したところまで書いた。
今回はそこから60歳ぐらいまでの話。


西暦    タイ歴
2006年(2549)4月頃、54歳、バンコクからパーンへ移転。娘1歳。
2008年(2551)4月頃、56歳、シビック購入、&娘、幼稚園1年。
2009年(2552)頃、インターネット接続。
2010年(2553)頃、父他界。
2011年(2554)4月、59歳、娘、小学校1年(日本)。
2012年(2555)5月、60歳、娘、小学校2年(タイ)。


2006年4月に54歳の時、奥さんの強い希望によりバンコク(当時はラッチャダーのスーンワッタナータム=MRTのタイ文化センター駅近くのコンドミニアムに住んで居た)から奥さんの出身地のチェンライ県パーン郡に家を建てて、家族3人(この時、娘1歳)で移って来た。

パーンの家は当時はチェンライ空港から車で1時間程掛かり、市内からも30分程掛かる。
チェンライ県といっても、市内からは遠いかなりの田舎。

家の裏側は田圃、ていうか家自体が田圃を埋め立てた上に建って居る。

直ぐ近くには奥さんのお婆さんの家、木造高床式の家が有り、一番上のお義兄さん夫婦もその近くの木造高床式の家に住んで居た。
この頃は村の家は殆ど木造高床式の家だった。
まるで古代にタイムスリップしたような村。

木造高床式の家でも、御殿の様な高級感のある家も有るが、当時村に建って居た家は、失礼な言い方をすれば「あばら家」だった。
まあ、隙間だらけでも屋根さえしっかりしていれば熱帯だから、風通しが良くていいかもしれない。

商店も殆ど無く、150mぐらい離れた所に雑貨屋みたいのが1軒有っただけ。
その代わり、朝市とか夕市は100mと200mぐらい離れた所に有った。
土地で取れる野菜・果物とか、魚の干物(プラートゥー)とか、タイ風の焼き鳥、とか売っていたが欲しい様な物は殆ど無かった。

こんな所では文化的な生活は無理だし、まともなタイ料理すら食べるのも難しい、まして和食など絶対無理、そういう環境だった。
別に逼塞して暮らす必要も無いし、逼塞して暮らす積りも無かったが、車も無かったし、このままではそういう事に成ると思った。

流石に、この土地で、この土地の人達のような生活をするのは無理だと思った。

取り敢えず食事だけは何とかしなければならない、という事で、週に1回ぐらいはお義父さんの車でBIG-Cなどに買い出しに出掛けた。
当時はBIG-Cが一番便利だったが、パーンの町のタラート(市場)にも結構行った。
でも、この頃は日本食に使えるような食材は余り手に入らなかった。
調味料などは日本に帰国した時にキャリーバックにぎっちり詰めて持って来ていた。

日本食材が揃え易く成ったのは2013年にセンタンが出来てTOPSで買い物が出来るように成った頃から。


お義父さん夫婦は家からは車で20分ぐらい離れた所に住んで居たが、家には良くやって来た。

お義父さんの車が使えない時は、ソンテウやバスでチェンライの街まで行ったり、そこで、車をレンタルしたりしていた。
奥さんはバイクで近場なら買い物に行けたので、自分もバイクに乗ろうとして、最初の1回目でアクセルとブレーキを間違えて隣の家の生垣に突っ込んで「バイク禁止」に成ってしまった。

田舎の生活は情報に関しても世間から隔絶された様な状況で、これも何とかしなければいけない。
チェンライの街に出た時は1日遅れの読売新聞を買った。
テレビは衛星アンテナを付けてインドとか海外の放送も見れる様にした。NHKワールドが見れた時も有ったが、英語放送が殆どで余り役に立たなかった。衛星アンテナは故障が多い、という問題も有った。
この頃は、帰国した時に本を沢山買って来て、それを読んで渇望した情報不足と持て余す時間を紛らしていた。


2008年の5月頃、娘が幼稚園へ通う様に成って、その前に車(今も使っているシビック)を買った。
これで買い物が自由に出来る様に成って、行動の自由も少し広がって、やや、普通の生活に近付いた。

車を買う条件と、娘を家から少し離れた私立に入れる条件として、「送り迎えは奥さんがやってね」という事にして、これは今迄ほぼ守られている。
食事を作るとか、掃除をするとか、家事を信じられないぐらいしない奥さんだが、娘の送り迎えだけはちゃんとやっていて偉いと思っている。


2009年頃(実はここは良く覚えて無い)インターネットが引ける様に成ってTOTのインターネットを引いた。
それ以前は回線が村まで来て無くてインターネットを引きたくても出来なかったが、インターネットが引けたという噂を聞いて、直ぐに動いてインターネットを引いた。

これで、ニュースとか株価とかの情報は世間並に入手出来るようになった。
ネット情報は、ほぼ、日本に居るのと変わりなく入手できる。
(一部、海外からは見れない情報も有る)
(今では、株の売買は日本と同じに出来るが、当時はまだネット取引はやって無くて、インターネットが入って暫くしてからネット取引の手続きをした)
それまでの、情報から隔絶された生活から解放された。

車とインターネットが揃ってやっと、少し文化的な生活、普通の生活、が見えて来た。
今では、インターネットが無くてもスマホが有れば、随分違うと思うが当時はまだスマホは普及して無かった。

2010年頃父が他界した。実は、正確にいつだったか、何歳の時だったか覚えてない。日本に行けば分かるが、今、手元に資料が無い。
多分、父81歳、自分が58歳の時だと思う。
この直後に、母の認知症が表面化したが、最初から施設に入った分けではない。
ケアマネジャーさんと相談しながら、訪問介護とかディサービスとか最後は介護施設への入所とか段階を踏む事に成る。

自分はこれ以前も年に5回ぐらい、日・タイを往復する生活をしているが、母が認知症に成って、それを続ける必要性が増した。


2011年4月、自分59歳、娘6歳、の時に娘を日本の小学校に入学させた。
ここから1年間、家族3人で東京都杉並区の家で暮らす事に成る(母も入れて4人)。
1年日本に居て、学校にも通わせれば、日本語を覚えるのではないかと思った。
結果的に、この目論見は見事達成された。
(最初はもっと前に日本の幼稚園に入れようとしたのだが、それは幼稚園側に断られた)

娘は日本国籍も有るし、杉並区民でもあるので、日本の公立小学校に入学するのは制度上は問題ない。
ただし、事前に入学予定の学校と打合をせして、日本語が不自由である事を話して、娘を日本語に慣れさせるための専門家を付けてくれる事に成った。
杉並区では(?)元々そういう制度が有ったらしい。
(週に2~3回、1時間ぐらい、1対1の特別授業が有った)

帰国子女の親の情報交換会みたいのも区の主導で行われた。
集団登校の付き添いなどのPTA活動もやった。
30代ぐらいの奥様方に混じって60歳の爺さんがPTA活動というのは、ちょっと浮いていた感じだったが、最低限の役割は果たした。
運動会などの見物にも行った。
父兄会みたいのも有って、奥さんは出来ない(日本語が話せないので無理)ので、自分が「父兄」の役割を果たした。
ちょっと恥ずかしい感じもしたが、色々な活動は新鮮で面白いと思った。

入学式の時に、親から離れて行く時にワーワー泣いたが、帰って来た時にはケロッとしていた(と思う)(正確に覚えて無い)。
3ヶ月もしたら、自分との会話も日本語に成った(それまではタイ語で話して居た)。
娘が日本の学校に通たのは、1年生の時の1年間と、3年生~5年生までの4月だけだが(4月はタイの学校は休みで、その間に日本の学校に1ヶ月だけ通わせた)今ではほぼ普通に親子の会話は日本語に成っている。

尚、奥さんは2011年の8月頃に在留許可が下りて、日本への滞在や日タイの移動が容易に成った。
(3年ぐらい在留許可を持っていたが、更新を止めたので今は持って無い)


2012年4月、自分60歳、娘7歳、の時に娘をタイの小学校の2年に転入させた。
これは、娘が幼稚園の1年から3年まで行ったのと同じ学校。
パーン郡に有る私立の学校で幼・小・中の有る学校。


以下「7回目の兎年(最終回)」へ続く予定。


余談。

自分の人生にとって大きな出来事でも、正確な年月を思い出せないものが多い。
娘の学年とかは分かり易いが、父や母の事は結構覚えていない。
日本には何らかの資料が残って居るハズだが、タイに居ては見れない。
今回のシリーズは覚えている内に(資料が有る内に)ヒストリーを残して置こう、というのも一つの目的に成っている。
ブログはそういう記録を残すには役に立つと思う。
このブログを書き始めたのは2012年4月から、その時、自分は60歳なので、次回の記事を書く時にはブログの記録が役に立つと思う。


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2023年1月18日 (水)

7回目の兎年(その4)

2023/01/17(7回目の兎年)(その4)

自分の歴史を12年で区切ってふり返るこの企画、今回は48歳~60歳の話を書く積りでしたが、書き始めたら長くなったので48歳~54歳ぐらいで、会社を辞めた経緯とタイで生活を始めた経緯について書きます。

1974年4月22歳の時に社会人1年生。
1999年4月47歳の時に、勤続25年を達成。

「勤続25年達成者に連続した10日の休暇と10万円を支給する」というリフレッシュ休暇という制度が出来て、1999年11月、48歳の時にそれを利用してタイにやって来た。

この時は、タイ旅行好きの先輩社員と他1名の3人でタイにやって来た。
(リフレッシュ休暇は自分だけ)
(バンコクとチェンマイを1週間ぐらいで周った)
(この時の先輩社員は後に自分がバンコクで暮らす様に成った時も7人ぐらいでやって来て、一緒にプーケットに遊びに行ったり、また別の時にはチェンマイにやって来たり、今でも、帰国した時は旧タイ好きのグループで飲み会をする事も有る)

この時の旅行で「タイは何んと、のんびりした国だな~」、と思った。
自分は観光で来た、というのも有ったと思うが、みんな(タイ人)が陽気に遊んでいる。
チェンマイでは「昭和レトロ」的なものも感じた。

・・・こんな所でのんびり暮らすのもいいかな~・・・

そう思った。

もう一つ、この頃は株で結構儲けていて、旅行中も株価は確認していたが、旅行期間中に500万円近く儲かった(評価益)。
(この期間はたまたま大きく儲かった)
これならあくせく働く必要もないかも・・・。

この頃 ITバブルというのが有って、他にも連戦連勝だった。
仕事が情報処理系の仕事という事も有って、IT関連の会社の株などを多く買っていた。
上場前から買っていた自社株でも結構儲かった。

ここは(タイは)物価も安いし、ここなら、もう給料は無くても一生暮らしていけるかもしれない、そう思った。


それから約2年後、2001年10月、50歳の時に退職した。結局、会社には27年と6ヶ月勤めた。

退職する半年程前に、「早期退職優遇制度」みたいのが出来て、それが背中を押した。
今、50歳以上で退職すれば、退職金の満額と割増金が支給される、という制度。
これに乗った。

勤続25年でのリフレッシュ休暇から、50歳での早期退職優遇制度は、中高年を人員整理しようという会社の策略に上手く嵌ったのかもしれない。
まあ、会社の方から、辞めたい人は辞める事を奨励します、と言っている様なものなので辞め易かった。

実はその少し前から色々限界が見えて来て、会社自体は面白いと思っていたが、このまま55歳(当時の定年)あるいは60歳(再雇用)まで会社員をやってたら、会社で仕事をするだけで人生終わってしまうな~、という気がしていた。

会社を辞めるに当たっては、今後の生活費をどうするか、という問題が有ったが、それまで給与から溜めていたお金と株で儲けたお金で何とか成ると思った。
ITバブル絶頂の頃は、「もう給料は無くてもいい」と思っていたが会社を辞めようと思った頃はバブルは弾けていた。
しかし、まだ、勝ち分は残っていた。

まあ、万一、お金が底を尽きそうに成ったら、その時はまた働けばいいと思った。
71歳に成った今では、仕事はもう出来ないが残りの年数を考えれば「もう逃げ切り」、という感じには成っている。
(50歳まではきっちり仕事をしたので)少ないが年金も出るし。


会社を辞めて何をするか、暇を持て余さないか?、孤立して話し相手も居なくならないか?。
取り敢えず、世界を色々見てみよう、という事で会社を辞める前に空港に近い成田にアパートを借りて、そこに移った。

これが初めての東京脱出。
それまでは、長期出張で大阪に7ヶ月程居た事は有るが、それ以外は、中野区⇒日野市⇒杉並区、と全て東京暮らしだった。

成田は地方の中核都市だと思うが、アパートを借りたのは団地で、自分の小中学校時代も団地暮らしだったので懐かしい感じもした。
ボンベルタ百貨店が近くに有って、イオンモールも車で10分ぐらいで便利な場所だった。

職安も近くに有って、暫くは「失業者」として、失業保険を貰う為に通った。
確か、1ヶ月に1回ぐらい職安に行かないと求職しているとみなされず失業保険が出ない。
なのでタイに遊びに行った時も、そのために帰国したりしていた。

10ヶ月ぐらいで失業保険が切れた時、自分も遂に無職無収入に成ったか、と思った。

成田山新勝寺の境内や参道を散策したり、イオンモールで買い物をしたり、昔の会社の友人達と麻雀をする為に西船橋辺りに行ったり、自由気ままな成田暮らしは楽しかった。


成田空港は近いので、ここを拠点に世界に旅立つ。
空港は世界中と繋がる「どこでもドア」。

先ずは、馴染みのあるタイへ。
最初はホテルを予約して1週間ぐらいの旅行を繰り返し、その内、ホテル代が勿体ないのでバンコクにアパートを借りて。

バンコクでは日本食堂の親父さんと知り合って、一時期、そこの雀荘に入り浸り(食堂の2階が雀荘に成っていた)。
AM11時頃に「メンバーが足りないから来い」みたいな電話が掛かって来て、だいたい深夜まで麻雀。
食事は日本食堂だから和食が色々有る。
食事代は場所代に含まれてゲーム中は食べ放題。勝てばタダ。
最初の数ヶ月(3ヶ月ぐらい)はルールに慣れずに負けたが、そこからは、平均するとタダで麻雀と食事が出来るように成った。

メンバーは食堂の親父さんの他に駐在員さんや現地採用の方、遊び人さんなど。
自分で商売をされている方も居た。
(その内の1人に「売掛金が入るまで金を貸して」と言われて20万バーツ貸して、17万バーツほど未回収に成ったのは痛い思い出)
(この方、何人もから借金をしていて、「債権者会議を開いて取り立てに行こうか」何て話もあったが、結局みんな踏み倒したと思う)

年末などはみんなで忘年会をやったり、遊び人さんにバンコク内を色々案内して貰ったり、面白かった。

その内、タイに居る時間の方が長くなったので、成田のアパートは1年ぐらいで引き払って、日本の拠点は杉並の家に戻した。
タイではタイ語教室に通ったりもした。

この頃、今の奥さんと知り合って、子供が出来たので2004年4月頃(?)広いアパートに引っ越して、5月に結婚式、6月に日本で籍を入れて(この時52歳)、7月にタイの籍も入れた。
娘は同年9月に誕生した(この時、自分は53歳)。
(自分の両親も「出来ちゃった婚」だが、自分も「出来ちゃった婚」)

その後、バンコクでは1年半ぐらい暮らして、2006年の初め頃(?)(自分は54歳)、奥さんの強い希望でチェンライ県のパーン郡という奥さんの出身地に家を建てて移った。

長く成ったので今回はここまで。
以下、チェンライでの話は「7回目の兎年(その5)」へ続く予定。


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2023年1月12日 (木)

7回目の兎年(その3)

2023/01/12(7回目の兎年)(その3)

自分の歴史を12年で区切ってふり返って見るこの企画、実は初めから解っていたが、会社員時代って書く事(書きたい事)が余り無い。
当時は、一生懸命仕事をしたし、遊びもまあまあした、と思っているが結果として殆ど何も残ってない。
つまらなくは無かったが、結果として眠っていた様な会社員時代だった。

会社員は1974年4月(22歳)~2001年10月(50歳)まで、27年と6ヶ月やった。
兎年で括ると24歳~36歳、36歳~48歳と2つの期間に大部分が収まるので、今回は24歳~48歳の「会社員時代」として纏める事にする。

尚、会社員の頭の方は新入社員時代(22歳~24歳)として前回の「青年期」に書いた。
尻尾(48歳~50歳)の部分はタイにかかわり始めた時期で、それは、次回の48歳~60歳の「タイ生活前期」に書く事とする。

漫画の「島耕作」だと会社員って、派閥争いとか、出世競争とか、新規事業の立ち上げとか、オフィスラブとか、不倫とか、随分楽しそうな事をやっているが、自分の場合は、そういう事に殆ど無縁だった。

抜擢も無ければ左遷も無い、転勤も無い、私生活でも東京都杉並区の家からの通勤を繰り返すだけ、入院するような病気に成った事も無い、事故や事件に巻き込まれた事も無い、ただただ忙しく仕事をしていた。

と書いて、これで終わらせる分けには行かないので、会社員時代に合った事や今考えている事を幾つか書いて見る。

まず、この時代の失敗は何と言っても「人生やるべき時にやるべき事をやって置くべき」という事。
異論のある方も居ると思うが、ここは、「家庭を持って子供を育てる」時期だと思う。
それをやらなかったが為に今、71歳にも成って未だに子育てをやる羽目に成った。

・・・まあ、それはそれで面白いが・・・。

「モテなかった」のでしょうがないが、島耕作さんみたいにオフィスラブとかやりたかった。
ちょっとだけ、「モテキ」を感じた時も有ったが、その時期に決めて置けば良かったかもしれない。

こういう話は、チェンライ在住の邦人には恵まれて居た方が多くて、とっかえひっかえ、とか、不倫とか・・・。
不倫なんて、自分はそのスタートラインにも立てなかった。
(チェンライの邦人の多くは日本での婚姻歴があるが、単身でタイに来られた方が多い)
(みなさん、日本で随分楽しい思いをされた様だ)

仕事は、プログラミングとかシステム作成をやっていた頃はメッチャ忙しかったし、ストレスも強かった。
それでも、面白かったが、ノイローゼみたいに成った事も有る。

有る仕事で、客先に出向いて新システムのインストールをする仕事が合って、これが全然動かない。
システムを開発した機種(ユニシス)と顧客の機種(IBM)との違いが容易に乗り越えられない。
客先には1人で出向いていたので、自分1人で解決するしかないが、基本的な知識が無い。
そこで渡されたのが、IBMの辞書みたいに分厚いマニュアルで、これが英語。
このブログで何度も書いているが、自分は英語が苦手で大嫌い。
もうお手上げ、頭がまっしろ、目が点、って感じだった。

某有名組織のある業務のシステム担当に成って、その本番の処理中にプログラムミスで作業がストップした。
時間的余裕が有ればいいが、ギリギリのスケジュールで作業をしている。
社会的に大きな注目を集めている業務で、遅れたり、問題が有れば、翌日か翌々日の新聞紙上を賑わす事はほぼ確実。
しかし、システム上の問題というのはそう簡単に分からない、解決には時間が掛かる事が多い。

・・・迷人、大大大ピーンチ!、真っ青!!!・・・。

結局、自分では解決出来ずに前任の担当者がミスを見付けてくれて、処理を終わらせる事が出来たが、会社の上層部や顧客のお偉いさん達を含めて大騒ぎだった。
(ただし、業務の性格上、知っていた人数は限られていたと思う)

他の組織の似た様な業務で新聞紙上を賑わしていた事も結構あったし、規模は違うかもしれないが、「システム障害で○○が出来ない」なんてニュースを聞くと、「担当者は真っ青だろうな~」「きっと、問題が解決する迄、寝る事は出来ないだろ~な~」、と今でも思う。

自分の場合、効率化を追求するのは得意な反面、手を抜く事も得意(?)で、この仕事環境には適して居なかったのかもしれない。

仕事はきつかったし、残業時間とかも多かったが(家に帰って寝る時以外は、土日も含めて全部仕事なんて時も結構あった)仕事も工夫したり、上手く行った時は面白かった。
社員も理工系が多かったので、そういう面で似た様な感じを持つ事も多かった。
麻雀や囲碁・将棋も強い人が多かった。
社員旅行とかクラブ活動的な合宿とかも面白かった。

まあ大変だったけど、面白い事も多かったので会社(または会社員という立場)は好きだった。


両親等の事を少し書くと、杉並に引っ越したのは父が、郵便局の局長に成った(郵便局を建てた)為で自宅と郵便局がくっついた建物だった。
母は暫くはその郵便局で父と共働きをしていたが40歳ぐらいで退職して専業主婦に成った。
祖母はその少し前に他界した。

この頃は、経済的には少し余裕が出て来ていた。
まあ、家族全員、無駄遣いしない性格だったし、みんな勤勉でそれなりの仕事をしていたし、当然といえば当然だったと思う。

自分が30歳の頃には、父は別荘地を探し始めて、休日に私の車で、千葉県(勝浦など)や山梨(甲府の近く、竜王の辺り)に良く下見に行った。
結局、山梨県の小淵沢町に別荘地を買って、此処に別荘を建てた。
自分としては勝浦の小山の上の土地が、海岸線を見渡せる絶景の地で、ここに別荘立てたらいいな~、と思ったが父の別荘だったので、自分が口出しする事では無かった。

小淵沢町(今は北杜市)の別荘には会社の友人達を連れて行ったりしたので、そこからは自分は別荘を持っているお金持ち、という事に成ったらしい。
実際には田舎の土地何て金額的には大したものでは無かったし、父にしても、有り余るお金が有って別荘を建てたというよりも、別荘を建てるお金は有った、という程度で、別に金持ちという事では無かったのだが。

父は63ぐらいまで郵便局長をやった後、退職した。その時自分は40歳ぐらいだった。
(正確に記憶が無いが、自分は父が23歳ぐらいの時の子供だと思う。因みに父も(私も)出来ちゃった婚)

退職後、父は今度は千葉県の大網に土地を買って、そこにも別荘を建てた。
別荘を建てるのは父の趣味みたいなものだったと思う。

ここから両親は、夏は小淵沢(北杜市)(八ヶ岳山麓の涼しい別荘地)、冬は大網(千葉県)(温暖な房総)、その間に杉並の家に立ち寄る、という生活に成った。
ずーっと杉並の家に居た(ここから通勤していた)自分は、ほぼ1人暮らしに成った。


あと、最後に1つ。

ブログの最初に「(会社員時代は)殆ど何も残ってない」と書いたが、敢えて上げれば1つだけ残ったものが有る。
それは30代前半ぐらいから始めた株で、実際に成果が上がり出したのは40代に成ってから。
ここで、信じられないくらい儲かった。
もう給料は無くても一生困らない、と思うくらい儲かった。
しかし、その半分以上は1999年~2000年頃(50歳前後)のITバブルの崩壊で失ってしまうのだが・・・。

以下、「7回目の兎年(その4)」、タイ生活前半(48歳~60歳ぐらい)へ続く予定。


ここまで、筆者の個人的な歴史にお付き合い頂きありがとうございます。最後にもう1つ。
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2023年1月10日 (火)

7回目の兎年(その2)

2023/01/10(7回目の兎年(その2))

7回目の兎年の年頭にあたって、これまでの自分の約71年の半生(残りの期間からいって、「半生」というよりは「5分の4生」ぐらい?)を振り返って見よう、記録して置こう、という企画の2回目です。

今回は12歳~24歳までの話です。

「青年期」というのはいろいろな説があって、グーグルで調べたら11歳~20歳とか13歳~22歳とか、10歳~30歳とか書かれていた。
まあ、12歳~24歳を青年期と言っても間違いではないであろう。
今回はその「青年期」の話。

1964年4月、12歳の時に中学入学。
1967年4月、15歳の時に高校入学。
1970年4月、18歳の時に大学入学。
1974年4月、22歳の時に社会人1年生。

自分の歴史を振り返る場合、「単調」なのも1つの特徴で、学生時代に留年とか浪人とかの経験は無いし、会社に入ってからも転職とか転勤も無い。
最初に入った会社に50歳まで居て、退職後に再就職とかも無い。

青年期というのは人生で、一番重要な時代、一番変化の多い年代、一番楽しい年代、だと思う。

この時代に、その後の一生の大体のところが決まる人が多いのではないか。
小学校卒業までは誰も同じ様な感じで、一生の中での枝分かれがされるのが青年期、その後の進路(医者に成るとか、教師に成るとか、技能職に成るとか、フリーターに成るとか)が青年期で決まる事が多い。

自分の場合も、中学、高校、大学、社会人、と変化は有ったが、当時の同世代としては一番ありふれたコースを辿った。
この間、中学は東京都日野市の家から通ったが、高校、大学、社会人は東京都杉並区の家から通った。

今から考えると、此処で1つの選択ミスをしたと思う。
社会人に成った時、家を出るべきだった。
仮定の話だが、家を出て独立した方が、自由に行動出来て良かったのではないかと思う。
結局家を出たのは、50歳に成ってからで、此処から行動が前向きに成った。

チェンライに暮らして居る同胞には、20歳前に上京して来て、20歳前に結婚して・・・、とか、そういう話を聞くと自分はこの時点で大きく出遅れたような気がする。
早く独立すべきだった。のんびりし過ぎた。

一番楽しい年代というのは・・・?。
確かに全体的に見れば楽しい年代だったと思うが、もっと遊んで置くべきだった、そこは一番後悔している。

この時は見えて無かった。
このまま楽な生活をしていても、自然に状況は変わる。
焦って失敗するよりも、状況が好転するのを待った方が得策・無難。
焦る事は無い、努力さえしていれば状況は好転する、と思っていた。
今から考えると、その「努力」の方向性が間違っていた。

此処は(勉強も、仕事も、人間関係も)積極的に動くべきだった。

それでは各年代別に・・・。


中学時代。

特にブログに書く様な事も無い、ありふれた中学生だったと思う。
元々運動は余り得意ではない、英語以外の成績はまあまあ。
人付き合いは苦手意識は有ったが、普通だったと思う。


高校時代。

入学した最初の学力テストで3百何人中、3百番台で(330人中310番目とか、そのぐらい)いきなり劣等生に成った。
少ない友人は居たが、どちらかというと孤立していた。
ここは人生の暗黒期(今から考えると懐かしい思い出も有るが)。
世の中には嫌な奴も居る、卑怯な奴も居る、というのを強く感じた事も有った。

この時、もっと自分自身を俯瞰的に見る事が出来たらと思うが、それは結果論で当時はそんな余裕は無かった。

担任が英語の教師で、劣等生扱いされた。
これで英語嫌いが決定的に成った。
思ったのは、「アメリカ人なら小さい子供だって英語が話せる」「別に英語が出来れば偉い分けじゃない」「数学や物理が出来る方が頭がいい」だった。

成績の方は、特に努力をした気は無いが最高25番目まで行ったので、まあまあに成った。
多分、入試の時、自分のレベルより高い高校に合格して、追い付くのに時間が掛かったという事だと思う。
(最後まで、英語は全然ダメで嫌いだったけど)
(今は思ってないが、当時はアメリカに媚びを売るのはバカバカしいと思っていた)


大学時代。

高校時代、真面目に勉強しなかったので、名乗れる程の大学には入れなかった。
その分、勉強は楽で遊びにエネルギーを集中出来た。

ここで、いきなり麻雀を覚えて、それが生涯の趣味に成った。
多分、授業がまだ始まる前、オリエンテーションの時に周囲に居た人達と意気投合して麻雀を教えてもらう事に成った。
S君という、ちょっと年上の麻雀の上手い方が居て、他の3人(4人?)は初心者だった。

S君には敵わなかったが、他の仲間よりは若干いい成績だったと思う。
まあ、勝っても学食のうどん代が出るくらいの賭け(?)だったが。

朝、学校の門の前に着くと、3人が待って居て、そのまま裏門から出て馴染みの雀荘に直行なんて事も結構あった。
(当時はスマホなんて無いから、実際に合ってみないと分からない)
雀荘で数時間麻雀をやった後、そのままメンバーの下宿に行って朝までとか、も良く有った。
(麻雀もやったけど、コントラクトブリッジなんかもやった。囲碁も少しやった)
真夜中に食べた「おでん」が美味しかった。

工学部だったので女性は少なく、他の大学と合コンをやって、女性と付き合う何て事も有ったが、長く続いた事は無い。

大学時代にやったイベントで一番記憶に残って居るのは、網元の息子が居て、彼の家の船で佐渡ヶ島沖まで漁に出て、イカ釣り船だったのだけれども、結局、凄い船酔いで元気が有ったのは最初の数時間のみで、後は数日船の中で仲間5人全滅、寝たきりだった。
もう吐くものが無くなって、胃液みたいのが出て、ゲーゲーやっていた。
(船員さんが4~5人規模の漁船)

新潟の桟橋に着いた時は「助かった~!」と思ってホッとしたが、暫くの間、地面がグラグラ左右に傾いていた。
平衡感覚が正常では無く成っていた。

それでも、いい経験に成ったと思う。
良かったのは、網元さん(友人のお父さん)の家でご馳走に成った海鮮物が美味しかった事で、特に食べ放題のイカソーメンの旨さは忘れられない。

他にも卒論の為の泊まり込みの合宿、とか、みんなで大学野球の応援に行ったりとか、デモに参加して機動隊が目の前に現れると一目散に逃げだしたりとか、大学時代は面白い事が沢山あった。
デパートの食品売り場の売り子のアルバイトや、お祭りの神輿担ぎのバイトなんかも面白かった。

麻雀のメンバーとは今も年に数回(ここ2~3年はコロナで回数が減っている)新宿や新橋で飲み会やカラオケをやっている。
まあ、卒業してから50年近くも経つと、他界されたり、借金取りに追われて行方不明になったり、色々あるが、まだ、多くのメンバーは変わらず元気にしている。
まだ現役で仕事をしいる方も居る。


社会人1~2年目。

当時流行り出していたコンピューター関係の仕事がやりたかったので、学生時代から個人的に勉強していた。
そういう情報処理関係の会社に就職して、システム分析関係の職場に配属された。

最初は燃えていた。

COBOLというブログラム言語で、プログラムを作る作業をした。
これは結構面白かった。

この会社、当時はそれ程とは思わなかったが、今の基準で言うとかなりのブラック企業だった。
福利厚生とか給与体系とか作業環境とかは特に悪くない。
残業をすれば残業手当もきちんと出る。
残業カットなんて事は当時は無かった。

何がブラックかと言うと、仕事量が半端なかった。
仕事の内容としては面白いので初めの内は残業とかも気に成らなかったし、周囲もみんな残業していた。
自分が残業に成るのは未熟な為でしょうがない、もっと上達すれば、こんなに残業する事も無くなる、と思っていた。

しかし、残業は無く成らなかった。
作業効率が上がるにつれてそれ以上に仕事量が増えた。難易度が増した。
周りには、「凄いな~」と思う程、手際良く正確に仕事をする人が大勢いて、自分が残業に成るのはしょうがないと思ったが、20代前半の貴重な時間を仕事ばかりやっていていいものなのか、とも思った。

まあ、それでもこの頃は燃えていた。

実力を付けてもっとみんなが驚く様な仕事をしてやろうと思っていた。

ストレスが溜まって麻雀は結構やったけれども、それ以外は仕事だけだった。
休みの日でも仕事の事を考えたり、休日出勤もした。

今考えると、ここでも、ちょっと方向性を間違ったかもしれない。
まあ、入社1~2年目だから、他の事は考えず仕事にかなりの比重を置く、というのはある程度正しい考えだと思うが、それ以外に、もっと周りをよく見て、人間関係を考えるとか、そういう事をすれば良かったと思う。

時間があれば麻雀出来る仲間が居れば当時は満足だったが、もっと戦略的な人間関係とかスキルの構築とかをして置けば良かったかもしれない。


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2023年1月 7日 (土)

7回目の兎年

2023/01/07(7回目の兎年)

1回目は生まれた年、1951年。0歳。
2回目は12歳。
3回目は24歳。
4回目は36歳。
5回目は48歳。
6回目は60歳。
そして兎年の今年72歳に成る(今現在は71歳)。

昔の事を考えると、一瞬、自分がまだそこに居るような錯覚に陥る事もあるが、実際は随分歳を取ったものだと思う。
何をして来たのであろう。

0歳から12歳までは、前半と後半で大きく分れる。

前半(6歳、小学校1年の1学期まで)は東京都中野区で両親と祖母、父方の叔父さんや叔母さん達と暮らして居た。
今の基準で考えれば極貧だったと思う。
6畳と2畳のアパートに通常は4人、叔父さんや叔母さんが居た時は5人で暮らして居た。
実は、叔父さんや叔母さんと暮らして居たというハッキリした記憶は無いが、言われてみればなんとなくそんな気がする。

多分台所も無かったと思うがハッキリした記憶は無い。
トイレは共同トイレで、夜中にトイレに行くのがお化けが出そうでもの凄く怖かった。

父は次男だったが兄弟の内で一番早く結婚し、自分がその長男(結局一人っ子)で、父の兄弟(女5人、男3人)の中でも最初の子供だった。
母の姉妹(最初は4人だったらしいが自分が生まれた時は2人)でも自分が最初の子供だった。
多分当時は、戦争が終わって落ち着いて来てこれからという時に、周囲の期待を背負って一族で最初に生まれて来た子供だったのだと思う。
そんな事は子供(赤ちゃん)の時は分からないが。

近所の人達(同じアパートの人達)にも可愛がられたらしい。
これも、記憶に無いが、言われてみれば、という感じが少しあった。

極貧だったかもしれないが、そんな事は分からないし、ひもじい思いをした記憶も無い。
多分、日本全体がまだ貧しい時代だったのだと思う。

断片的な記憶を辿ると、アパートの隣が蕎麦屋で、白黒テレビが置いて有って父と力道山のプロレスを見に行ったりした。
多分、たまに外食するぐらいの経済的余裕は有ったらしい。
風呂屋に行った記憶も有る。

あと近所で、缶蹴りをして遊んだり、何処かのお兄さんに連れられてラーメン屋に行ってラーメンをご馳走に成ったり、小学校の近くに居たカタ屋でカタを買ってカタを取った粘土に塗り絵をした記憶もある。

囲碁や将棋も最初にやったのは幼稚園か小学校1年ぐらいだったと思う。

1年の1学期までは中野の小学校に通ったが学校での記憶は殆ど無い。
ここまでが、0歳~12歳までの前半(0歳~6歳)までの東京都中野区に住んで居た頃の話。

1年の2学期からは東京都日野市の多摩平団地という所に引っ越した。
最寄り駅はJR中央線の豊田駅。

新しい団地で綺麗だったし、家も中野のアパートから比べると全然広くて、1階に4畳半と台所と風呂とトイレが有って、2階には3畳と6畳の部屋が有った。
階段を登って行くと2階にも部屋があるという凄い家だった(当時の印象)。

後から母に聞いた話では、家賃がものすごく高くて、最初は払って行けるのか心配だったらしい。
叔父さんや叔母さんが中野の家に同居していたのは自分が幼稚園かそれ以下ぐらいの時で、豊田では祖母、父、母、私の4人暮らしだった。

家は共働きで両親共郵便局に勤めていた。
父は中野の郵便局まで通勤。母は地元の郵便局に転勤した。
給料は安かったと思うが2人分を足せば、暮らしに困らない分ぐらいは有ったのだと思う。

私の面倒は主に祖母にやって貰った。
祖母も働き者で学校給食の手伝いや、着物の仕立て直しなどのアルバイトで、自分のお小遣いぐらいは稼いでいたらしい。

流石にこの辺からは覚えている事も多く成って、記憶している事をすべて書いていては切りが無いので、断片的に一部を切り出して書いて行く。

団地に住むように成って大きく変わったのは、居住環境が大幅に改善された事だが、その他にも、家電製品が色々入って来たというのも大きい。
一言で言えば、中野に住んで居た頃と違って、ずっと文化的な生活に成った。
時代も、そういう時代だった。

洗濯機、扇風機、ステレオ、白黒テレビ、冷蔵庫、などを次々に月賦で買った。
(まだ、クーラー、カラーテレビ、電子レンジは無い。団地には駐車場も有ったが、当然(?)車は無かった)
(「月賦」、当時はこう言っていた様な気がする。クレジットとか言い出したのはもっと後のような(?))
新しい家電製品が入る度に生活が便利に成って行く、近代化して行く、そんな感じだった。


多摩平団地というのはかなり大きな団地で、最終的には小学校2つ分を抱えるぐらいの人数のある団地と成ったが、自分が越して来た時はまだ建設途上で、団地の小学校は無かった。
小学校は昔から有る地元の小学校に通ったが、団地からは少し遠かった。
正確な記憶は無いが、田圃や畑を脇に見ながら、集団で登下校した。

小学校では先住の小学生と、新参の小学生が別々のグループを作っていた。
当時の印象では、先住の生徒とは異質の物を感じた。
大雑把に言えば、農家の息子のグループと、会社員の息子のグループという感じで、一種のカルチャーショックみたいなものを感じた記憶がある。


しかし、直ぐに団地の近くに新しい小学校(日野第五小学校)が出来て、団地の子はこちらに移った。

当時(小学生時代)の遊びは主に外での遊びが多かった(今と違って電子的なゲーム何て無い時代)。
団地は、田圃や畑や雑木林の中に突然出来た様な感じで、一歩団地の外に出れば、そういものに取り囲まれていた。

この頃一番印象に残って居るのは、崖から飛び降りる遊び。
当時は凄く高い所から飛び降りると感じたが実際は3mぐらいだったかもしれない。
そこの壁面に砂利が置いて有って、その砂利に向かって飛び込む。
着地すれば砂利と一緒に下に流れるので、それ程の衝撃は無いが、飛び込む瞬間は怖い。
砂利と一緒に下に流れるその達成感が心地良かった。

木登りや栗拾い、沢蟹取りも良くやった。
ザリガニ取りや、網で魚すくいもやった。魚は余り捕れなかったが・・・。
あと、仕掛けを作ってスズメを取ろうとした事も有ったが、それは失敗した。

弓矢みたいのを作って遊んだ事も有ったが、材料は何を使ったか思い出せない。
団地の廃材でイカダを作ってやったイカダ遊びがこの時代、もっとも面白かった遊びの記憶として有る。

兎に角、小学生時代は田舎の遊びを経験した。
この経験は後々、田舎と接する機会が有った時の自信に成った。

・・・自分は田舎でも遊べる、暮らせる・・・

まあ、実際は大した経験はしてないが、
例えば、タイに来てチェンライ県パーン郡の田舎で暮らす様に成った時、此処で何か田舎らしい遊びが出来ないかとか、
山梨県の小淵沢の家に行った時に、木登りして何か取れないか(アケビは沢山取った)とか、考える。

自分は都会育ちだけど、田舎の事も少しは分かるぞ、みたいな変な自信は有る。

団地の家は40㎡ぐらいの庭が付いていて、引っ越して来た時にそこに大根が生えていて、もしかしたら此処は以前は大根畑だったのかもしれない、と思った。
そのぐらい、自然(大根畑は自然じゃないが)の中に突然団地が出来たという感じの所だった。


小学校では目立たない生徒だったが、理科とか算数の成績は良かった。
特に、5年か6年の頃、算数の試験で100点を1人だけ、2回連続で取って、これはちょっと注目をあびた。
学校の成績ではこの頃がピークで後は下り坂に成った。

自分の場合、全然努力せずに気が付いたらトップで、そういうものかと思って、中学以降も殆ど勉強をしなかったら、流石にそんな甘いものじゃなかった。

国語は漢字の書き取りは苦手だったが、作文は得意だったみたいで(当時、自分にそういう認識は無かった)、市か何かの大会の学校推薦に成った事が有る。

会社に入ってからは、この文章力は結構役に立った。

これは今でも年齢の割にはまあまあだと思う。
ネットの掲示板などで、他者を誹謗中傷している書き込みを見ると、もう少しまともな(もっとセンスの有る)書き込みが出来ないものか、と思う事が良くある。


豊田には中学の3年まで居たが、そこから今の日本の住所、東京都杉並区に引っ越した。
次回は、兎年2回目12歳(中学)から、3回目24歳(社会人3年目)までの話の予定です。


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2021年10月21日 (木)

FIRE

2021/10/21(FIRE)

初めての英語タイトル。

FIRE・・・FIREって言葉を聞いた時、fire って火の事?、火事の事?、と思った。
それにしては、会社を退職する話とかにFIREって言葉が出て来るので、何でそれがFIREなんだ?。
多分、自分がFIREのスペルを勘違いしていて、FIREは別の単語なのか、あるいは、お尻に火がついて会社を辞めるとか、そんな意味で使われているのかとも思った。

fire をグーグル翻訳で翻訳すると、「火災」「火」「火事」「射撃」とかの意味が出て来る。
これでは、最近よく聞くFIREの意味がやはり分からない。

グーグルで「fire」を入力すると、「fire とは」というのが有ったので、それで検索してみた。
すると・・・。

FIREは「Financial Independence, Retire Early」を略した言葉で、「経済的自立と早期リタイア」という意味らしい。

別に、お尻に火がついて収拾が付かなくなって会社を辞める、という事では無いらしい。

なんか最近流行っている言葉らしいが、なんの事はない、自分が20年前にやった事だ。
っていうか、チェンライの知り合いの殆どがFIRE人だ。
新しい事でも、珍し事でも、何でもない。


まあ、ちょっと思い付いたので自分のFIRE人生(?)について語ってみたい。

自分の場合、最近よく聞くFIREというのとはちょっと違うが、結果としては今の FIRE に似ている。

今の FIRE は、「早期リタイヤを目指して計画的にお金を貯める、そのお金を投資で運用して増やす、生涯に使うお金を計算してリタイヤ出来る見通しが立ったらリタイヤする」そんな感じのものだと思う。
最初から「早期リタイヤ」という目標が有って、そのために資金管理と運用を行う、そういう事。

しかし、自分の場合は最初から早期リタイヤという目標が有った訳ではない。
資金の運用、投資はしたが、それも老後の蓄えという気持ちも有ったが、どちらかというと、ゲームのコイン集め感覚に近かった。

ちょっと考えが変わって来たのは、1990年頃から(正確に覚えてない、もう少し前からだったかも知れない)、遊びでやっていた株が儲かり出した事。

・・・このお金で何か出来るかもしれない・・・。

バブル景気の頃も少しは儲かったが、「凄く」なったのはITバブルの時。
この頃はほぼ100%儲かった。
証券会社の担当の方が、半分お世辞だろうけど「○○さん、どこから情報を仕入れているのですか?」と驚くくらい連戦連勝だった。

株の話を会社でする事が有って、「○○そんなに儲けたって使い切れないだろ~」と言われた。
この言葉は第1のターニングポイントに成った。

確かに、「もう給料が無くても一生お金に困らない」。
同時に、折角集めたゲームのコインの何か有効な使い道はないものかと考えた。

そんな時、在職25年で10日間の休暇が与えられた。
リフレッシュ休暇で何処か旅行にでも行きなさい、という事だったと思う。一時金のようなものも出た。

ここで、タイ好きの先輩に頼んで一緒にタイに旅行にやって来た。
これが第2のターニングポイントに成った。

・・・面白かった・・・

まるで昭和にタイムスリップしたような懐かしい感覚が心地よかった。
もう、会社なんか辞めて、ここでのんびり暮らすのもいいかな、と思った。

旅行から戻って、それでも仕事は普通に続けていたし、特に、リタイヤする為の準備というのはしなかった。
次に、旅行に行く時の為にタイ語の勉強をした事を除いては・・・。

約1年半後、第3のターニングポイントがやって来た。
会社が「50歳の社員に対し、今辞めれば退職金を少し上乗せする」という噂が聞こえて来た。
50歳目前の自分としてはこれはチャンスかもしれない。

別に、肩たたきをされた分けではないが、会社が、辞めたい方が居れば応援するので辞めて下さい、と言っているようなものなので、辞め易い。
退職金の上乗せ分は大した事はないが、何もない時に退職を言い出せば、元々の退職金が削られることを考えればやはりチャンスだ。

実は、この時、大儲けしたハズの株価はITバブルが弾け掛かって、大分目減りしていたのだけど、まだ、残っている。
自分は独り身だし、退職金、将来の年金、当面の失業手当、それに株資産などを足せば何とか成る。将来的にお金が不足すればその時、働いてもいい、そう思った。

退職を申し出た後暫く、3ヶ月程仕事は続けたが、その間も株は下がり続けてヒヤッとしたが、もう後戻りは出来ない。


という事で円満退職して、暫くは空港に近い成田に引っ越して、タイと日本を行ったり来たりの呑気な生活を楽しんだ。
その後、子供が出来たり、奥さんが出来たりして、タイに比重を置くように成って、成田のアパートは引き払って日本の本拠地は元居た杉並に戻した。
タイの方も最初はバンコクだったが奥さんの希望でチェンライに移った。

生活費の方は、暫く下がり続けた株もリーマンショックの前までに少し戻った。
大きかったのは、リーマンショックの時、株の持ち高を減らしていた事で、リーマンショックでのダメージが比較的軽く済んだ事と、その後の反転期に資金をつぎ込んで、その分の収穫が結構あった事。
自分にとってはリーマンショックはその後1年程度でみればかなりのプラスになった。

最近は何故だか良く分らないが、株価が高くなっているので、最近の生活費もなんとかなっている。
(実際には年金も有るし、そこに奥さんとか子供の加給年金も付くのでそれは意外と大きい)

まあ、株とか資産なんてフワフワしたもので、「一転して○○」なんて事も有るのでこの先も安泰とは限らないが。
しかも、リタイヤした最初の頃に考えた「将来的にお金が不足すればその時、働いてもいい」、という考えは、今となっては成り立たない。
自分の労働価値なんて二束三文にもならなくなった(高齢だからね)。
しかし、あれから20年経っているので、寿命とか考えるとそろそろ「逃げ切り」という気もする。

今敢えて、問題点を言えば配偶者の底なしの金遣いで、これはコントロールがちょっと難しい。


まあ、それ程計画的にFIREした分けではないが、結果的にはFIREした形に成って、もし、50の時にFIREしていなければ、今頃は天涯孤独で家で逼塞していたかもしれない。
(FIREと天涯孤独は直接の関係は無いが、FIREで吹っ切れて、自由にタイで動き回れた事が大きい)

配偶者や子供に気を遣う事もない生活も、それはそれでいいかもしれないが・・・?。



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2021年6月26日 (土)

昔の遊び(狩猟採集)

2021/06/26(昔の遊び)(狩猟採集)

回数は多くないが、何かを、獲ったり、採ったり、した遊び(?)は、印象に残っている。

小学校1年の時に都心(中野)から郊外(日野市、当時はまだ田舎)に移って来て、都会とは違った面白さを感じた。
通学路の左右には田圃が有り、家の近くに森、雑木林も沢山あり、池や湧き水から流れる小川も何ヶ所か有った。

そういう環境で、ただ遊ぶだけでなく、自然の物(動植物)を取るのが面白かった。

ある時、農業用水路の水が干上がった(正確に言うと、水溜まりの様に成った)。
以前もその川でザリガニを取った事は有ったが、その時はいくらでも獲れた。
で、バケツいっぱい獲った。
家に持って帰ってエビ料理が食べられると思ったのだが、残念ながら、そのザリガニはすべて捨てられた。
今調べたところによると、アメリカザリガニは食べられるが日本では殆ど食べないものらしい。

水が湧き出ている小川では小さなカニを獲ったし、大きな川(浅川)では魚を獲った。

ある時、空気銃の打ち方を教えてもらって、撃たせて貰った事がある。
当然免許も無いので違法だろうが、もう時効。
誰かのお兄さんにやらせて貰ったがそれが誰かは記憶に無い。全く知らない人、雑木林の中でたまたま会ったお兄さんだったかもしれない。

最初は動かない物を目標にして撃って、結構当たった。
自分は上手いのかもしれない、と思った。

次に、野生の鳥に照準を合わせた。
この機会を逃すと、もう次は無いかもしれない、そう思って慎重に時間を掛けて狙っている内に鳥は飛んで行った。
それ以来、銃砲の類は撃った事が無い。
あの時、引き金を引いていれば多分当たったと思うので、それは今でもちょっと残念に思う。

・・・「あの時、○○をやっていれば」、というのは他にも色々ある・・・

人生なんて、そんな事が積み重なって出来ているのかもしれない。

ちょっと話がそれたけど、何かを「獲ろうとする」、のは本能みたいなもので、それに根差した自然の中での遊びは、他の遊びとは違った特別なものが有った。
特別なワクワク感。

「動物を獲る」ことから比べると「植物を採る」のは刺激が少し落ちるが、食べられそうな物を採るのは好きだった。

ある時はノビロ、またある時はつくし。
まあ、結構一生懸命採った割には余り食卓には乗らなかった。

栗拾いもやった。
これは結構食べたし、生で食べた事もある。

昔から、食料の自給自足には興味が有った。


余談。

今迄、栽培して食べた物。
木苺、苺、大根、人参、じゃがいも、キャベツ、トウモロコシ、茄子、トマト、カボチャ、しし唐、ピーマン、キュウリ、スイカ、ブルーベリー、枝豆、マンゴー、パパイヤ、バナナ、リンチー、タマリンド。

今迄、捕獲して食べた物。
鮒、アサリ、蟻(マレンマン)。

今迄、採取して食べた物。
アケビ、栗、タラの芽、ワラビ、ゼンマイ、フキ、ヨモギ、つくし、ノビロ、何かのキノコ。

多分、今思い出せないだけで、もっと沢山の種類の物を食べて来たと思う。

その内、世界的な食糧危機が来て、自給自足の知識のある者だけが生き残る、そんな世界が来たら・・・そんな事は無いか。
ま、そんな事に成ったら、自分など真っ先に飢えて死にそうだな。


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2021年6月25日 (金)

昔の遊び

2021/06/25(昔の遊び)

4回前の記事、「昔の話」を書いていて幾つか昔の遊びを思い出したので、昭和30年代、自分の小学校(6歳~12歳)ぐらいの遊びの話を今回は書いてみようと思う。

小学校1年の1学期まで中野(東京都中野区)に居た頃の遊びの記憶は余り無いが、アパートの近くに空き地が有って、そこで近所の子と遊んだ記憶は微かに有る。
幼稚園の友達の事も少しは記憶に有るが、何をしたかは殆ど記憶にない。

近所に紙芝居屋が来て紙芝居を見た事や、学校の近くにカタ屋(注)が居て粘土細工に塗り絵の様な事をした記憶は有る。

(注、Wikipediaより)(カタ屋は、型(カタ)と呼ばれる素焼きの粘土型に粘土を詰めてその型の複製を作り、極彩色の粉色とともに子供たちに販売していた、昭和30年代後半から40年代に盛んだった露天商のこと。 主として、公園や空き地で店を開く姿が多く目撃されている)

自分がカタ屋でカタを買った(買って貰った?)のは、昭和32年頃(昭和30年代前半)なので、もしかしたらかなり先進的な遊びをしていたのかもしれない。

小学校1年の途中から豊田(東京都日野市)に引っ越してからは、やや野性的な遊びもする様に成った。
昭和30年代の初めの頃は「中野」もまだ自然が有ったと思うが、それでも都会で、それと比べると「豊田」は田舎で自然も豊だったし、田圃も雑木林も多かった。
また、住んでいた公団住宅のアパートが団地内の比較的大きな森のある公園に隣接していたので、その公園でもよく遊んだ。

小学校時代の遊びで一番印象に残っているのは木登りで、ある時、台風で森の木が1本倒れて、それが他の木に引っかかって、地面と2本の木で三角形に成った。
倒れて途中で引っかかった木は、地面から垂直に伸びている木より登り易く、しかもかなり高い所まで登れたので、そこからの見晴らしは素晴らしかった。
自分のアパートは2階建てだったが、倒れた木が他の木に引っかかった所は、その屋根ぐらいの高さが有った。

今から考えると、その木登りはちょっと危ない遊びだったかもしれないが、当時は、スリルは感じたけれども、それ程危ないとは思わなかった。
木の上の隠れ家的な感じで、そこから地上を見下ろして優越感みたいなものを感じていた。

ここじゃないが、腐った枝を掴んで、その枝が折れて木から落ちて病院に行った事も有る。


小学生時代の遊びで、木登りと並んで面白かったのはイカダ遊び。
家からはちょっと離れた所(徒歩30分ぐらい)に直径30mぐらいの池が有った。
そこで、自分達でイカダを組んで、竿で湖底を突いて、水の上を進む。
イカダを作る材料は、当時まだ公団住宅が拡張中で、使い古したスノコの様な木材がいくらでも有ったので、それを組んで作った。

有る時、航海中(?)に、作ったイカダが分解してしまい、沈没した事も有った。
記憶が薄れているが、たまたま、イカダが沈没した所が浅くて足が付いたので、どうという事は無かった。

因みに、この池は、自分達が遊んだ数年後に子供が溺れて死んで、囲いが出来て自由に遊べなくなった。
更に、十数年前に昔を偲んで見に行ったら、池自体が無くなっていた。
自分が遊んだ頃は、林の中の池、という感じだったが、人家に囲まれた小さな公園に成っていた。


池に落ちそうに成った事は他にも有る。

農業用の溜池か何かだと思うが、有刺鉄線で囲んである10m四方ぐらいの池が有り、そこに氷が張っていた。
多分、囲いの中に簡単に入れる穴か何かが有ったのだと思う。

中に入って氷の上に乗っていたら氷が割れて、落ちそうに成った。
で、咄嗟に有刺鉄線を掴んだ。
もしかしたら、有刺鉄線の尖って無い所を最初から掴んでいたのかもしれない。そう考える方が合理的だがハッキリ覚えていない。
溜池の端の方での出来事なので直ぐに脱出出来たが、手に怪我をした。


まあ、こんな風に、ちょっと危ない遊びもして来たが、それでも大きな事故もなく70年近くも生きて来た。
子供の頃の、ちょっと危ない遊び、というのはその後の危険を避ける為にある程度必要な事なのかもしれない。

また、自分の場合、子供の頃に田舎で遊んで得たスキルは、今でも、田舎で楽しく生活する為に役立っている。
日本なら北杜市に行った時、タイならパーンの田舎に住んでいた頃は、そういう経験が役立った。


小学生時代の遊びの記憶は、もっと書き切れない程有るが今回はこのへんで・・・。


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2021年6月19日 (土)

昔の話

2021/06/19(昔の話)

自分は昭和26年の生まれ。
団塊の世代の終わり頃か、団塊の世代の直後ぐらいに生まれた。

最初は中野(東京都中野区)のアパートで暮らして居た。
まだ戦後の雰囲気が残っていた頃だと思う。
ボロボロのアパートで、便所は共同。お化けが出そうで、夜中に便所に行くのが怖かった。

部屋は6畳の部屋と2畳の部屋の2つ。
ここで、父、母、(母方の)祖母、私の4人、で暮らして居た。
父の弟さんや妹さんが一緒に居た時期も有る。
今の感覚から言うと極貧だが、そんな事は分からなかった。

近くには割と空き地が多かった様な気がする。
紙芝居屋やおでん屋、アサリ売りなどが来ていた記憶が有る。
缶蹴り遊びなどをした記憶も有る。

隣にお蕎麦屋が有って、時折、父に連れられてテレビの力道山(相手はルーテーズだったと思う)を見に行った事も有る。
今から考えると、これは結構贅沢だったのかもしれない。

何故か、年長のお兄さんに連れられて、自分達ガキども数人でラーメン屋に行った記憶も有る。
自分がラーメンを食べたのはこの時が初めてだと思うが、味は覚えていない。

兎に角、この頃の記憶は曖昧で、今ではピンボケの世界の出来事である。


小学校1年の時に、中野から豊田(東京都下日野市)に引っ越した。
多摩平団地という大きな団地で、1棟に6軒の家が連なる2階建ての家だった。

1階に4畳半と風呂・トイレ・台所が有り、2階には6畳と3畳の部屋が有った。
広い家だと思った。何より2階まで有るのが凄いと思った。

この頃、家(うち)は中流のど真ん中だったと思う。
両親共、公務員として働いていたので、個々の給料はそれ程ではなくても2人分だから、平均かそれよりちょっと上ぐらいの収入は有ったのではないか。
時は、高度成長期、昭和30年代の3種の神器、洗濯機、テレビ(白黒)、冷蔵庫を次々に買って文化的生活の基礎が整った。

冷蔵庫で出来る氷が珍しくて、氷を食べて、文化的生活を感じたりしていた。
この頃新発売された「渡辺のジュースの素(粉末ジュース)」も凄い物だと思った。

粉からジュースが出来る、まるで魔法・・・凄い!・・・


続編を書く予定です。


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